日立製作所が量子コンピュータの開発に取り組む理由は、技術を誇示するためではない。困難を極める研究開発の先に見据えるのは、より良い社会づくりへの貢献だ。日立製作所 研究開発グループから、主管研究長兼日立京大ラボ長の水野弘之と、エッジコンピューティング研究部 部長の山岡雅直、そして日立北大ラボの竹本享史が、日立の量子コンピュータの果たす役割について語った。
今のコンピュータは解けない問題だらけ
日立製作所では、2種類の量子コンピュータを開発しています。ひとつは厳密には量子コンピュータではなく、量子コンピュータの挙動から学んだ「量子インスパイア型コンピュータ」です。実現が難しい量子コンピュータそのものを作るのではなく、量子コンピュータと同じ挙動を古典コンピュータの手法で実現したものです。もうひとつはシリコン半導体を活用したシリコン量子コンピュータです。量子コンピュータには、最適化問題に適したアニーリング型と、素因数分解など多用途に使えるゲート型の2種類がありますが、日立の量子インスパイア型コンピュータはアニーリング型で、「CMOSアニーリング」と呼んでいます。またシリコン量子コンピュータはゲート型です。そもそも、それらの量子コンピュータが必要になるのはどういった理由があるのでしょう。
水野:大規模問題を解くことが求められているからです。世の中には現行の計算機だったら、計算爆発するような問題がたくさんあるのです。解けない問題だらけとも言えます。例えば、今の計算機技術では、細胞1個をきちんとシミュレーションすることすらできない。ものすごく荒いシミュレーションをして、ようやく近似値が得られているぐらいでしょう。コロナウイルスのワクチン開発でも、シミュレーションできないために治験が必要で時間がかかりますしリスクもあります。動物実験も今後は更に難しくなると思いますし、より正確なシミュレーションへの期待は大きいです。
水野:電車や自動車などのデザインをするときに風洞実験をするケースがありますが、これもシミュレーションできないので実際に模型を作って実験するしかないのです。くしゃみの粒子がどのように飛ぶかも、粒子の大きさを細かくすると途端に計算できなくなってしまいます。ゲームならリアリティがあればいいので、近似値でも問題ないのですが、現行のコンピュータによる近似値では不足な用途は多くあるのです。
新しいコンピュータを開発するために、過大に課題を浮かび上がらせているということはありませんか。
水野:本当にここまでやらなければいけないのか、その価値はやってみないとわからないです。価値について考えてみると、データは過去のことがわかりますし、ネットワークは今の状況を伝えてくれます。それではコンピュータはというと、これは未来がわかることに価値があると思います。未来を示してくれると人間は安心できます。これが良いんじゃないの?という選択肢を示してくれたら楽になります。計算には莫大なエネルギーを使うかもしれないけれど、人間がより良い選択を行えてエネルギーを倹約できるなら、全体としてのエネルギー節約になる可能性があります。極端な例ですが、争いにならない選択肢をコンピュータが示せれば、トータルとして幸せになることができるでしょう。
山岡:どこまで本当にやると価値がでるのか、エネルギー消費問題もそうですが、トレードオフで決まるわけです。しかし、従来技術では大規模問題になると計算爆発が起こり、トレードオフすら取れません。新しい技術を用いて幅を広げることで、トレードオフをとることができるような可能性が広がるのです。エネルギーを使わないことに価値を見出す人もいれば、エネルギーを使っても他の価値が得られることを求める人もいるように、価値の見出し方は人それぞれです。そのうえで、価値のトレードオフの幅を広げてあげるのがコンピュータテクノロジーなのです。
マシンを作るのは手段、価値を生み出すことこそが目的
量子コンピュータやアニーリングマシンを研究開発することの意義はどう感じていますか。
山岡:私たちが入社したころの日立の半導体は、世界でかなりのシェアを持っていましたし、社内でも活気がありました。今、CMOSアニーリングや量子コンピュータの研究開発に携わっていて感じるのは、日立が価値を提供できる「手段」として半導体を使っているということです。そこが他社の量子コンピュータの研究との大きな違いです。他社は量子コンピュータの研究やアニーリングマシンの開発が目的のように感じます。しかし日立ではユーザーに価値を提供するための手段として研究開発をしています。CMOSアニーリングもソリューションを作って価値を生み出すことが目的です。CMOSアニーリング自体が売り物なのではなくて、そこから生まれる価値が売り物だということです。
それは、実際に社会に変化をもたらすことにつながる価値でしょうか。
水野:(我々は)もともと半導体の研究開発をしていましたが、事業構造が変わり日立としてはビジネスが縮小していきました。それでは持っている技術をどう社会に活かしていったらいいか。得意なところに軸足を残しながら何か新しいことができないか。プロジェクトを2011年頃に始めたのは、そうした転機があったからです。自分たちが持っている技術からどんな価値を社会に届けるられるかを考えてきました。日立が掲げる社会イノベーション事業はそうした考え方がベースにあります。
スマートフォンがあったことで人生が変わった人がいるでしょう。これがあったから、こんないい人生になったということがあるわけです。日立の量子コンピュータも、そんな存在になれたらうれしいと思います。量子コンピュータは人類が初めて使えるようになる新しいツールですので、新しいことをめざす人々に届けたいです。
できなかったことができる世界を引き寄せる力
量子コンピュータを社会実装することで、何が変わるのでしょう。
水野:例えば、今、鼎談しているこの部屋に1個だけ違う椅子があったとしても、終わって帰ってしまえば私たちはその事実を覚えていない。そもそも注目しなかったから、ですね。今のコンピュータでも、できていないことがとても多いのです。しかし、できていないことに注目していないから、それに気が付かない。「できていることしか見ていない」のが現実なのです。その外側にあることが、量子コンピュータによって可能になるはずです。量子コンピュータが普通に使われている世界を見たら、「こんなこともできるんだ」とびっくりすると思います。
山岡:例えば、2000年代に携帯電話で3G(第3世代移動通信システム)というものがありました。そのころ、99%の普通の人は3G携帯電話を便利に使っていて、満足していたでしょう。通信速度が足りないと言っていたのは、ごく一部の人だけだったと思います。量子コンピュータも同じで、できてみないとその能力の便利さを感じることは難しいのです。実現された後で、気づかなかった価値に気づくようになっていくでしょう。
水野:量子コンピュータに得意なことをお話します。古典コンピュータで計算爆発してしまう大規模計算を処理できるという側面もありますが、それよりも「多くの重なり合った状態をまとめてコンピューティングできる」という原理的な特徴があります。やりたいことを手順や要素に分解することがアルゴリズムで、古典コンピュータではそのアルゴリズムを使って計算していますよね。でも実際の世の中には手順や要素に分解できないことも多く存在します。分解したら元も子もないことが多くあります。手順や要素に分解できないけど、分解しないとアルゴリズムが作れない。その矛盾を量子コンピュータならば解けるかもしれない。要素に分解せずにそのままコンピューティングできるという価値が量子コンピュータにはあります。
実課題を解く多様なアプローチ
CMOSアニーリングを社会実装する取り組みは?
*山岡:**すでに適用事例があるのが強みです。日立は、損保ジャパン日本興亜と連携し、再保険市場で損害保険ポートフォリオの最適化にCMOSアニーリングを活用しました。リスクをなるべく抑えて利益を最大化できる再保険商品の組み合わせの計算です。従来手法では年単位の時間がかかるところ、CMOSアニーリングでは数日程度まで短縮が可能になると見られています。
日立の中央研究所では、コロナ禍での研究員の勤務のシフトを最適化する用途でCMOSアニーリングを活用しました。シフトのパターン、部屋ごとの上限日数、個人の最低出勤日数や最大出勤人数、出勤希望日やオフィス、時間帯など複雑な条件をもとに、少しでも出勤して研究を行いたいという研究員の希望を出来るだけ取り入れながら、3密を回避できる研究員のシフトの作成を行い、2020年6月から実際に運用を行いました。2020年10月には勤務シフト作成ソリューションとして、価値を外部に提供し始めています。
竹本:CMOSアニーリングを含む量子コンピュータは、まだ大規模問題に対して厳密解を得られる性能を得られていません。しかし近似解ならば古典コンピュータを超える性能をすでに得ています。社会課題の多くは、そもそも厳密解が得られにくいものです。近似解や局所解であっても、社会課題の解決に向けた解を得ることはできるのです。日立が北海道大学キャンパス内に開設した日立北大ラボでは、岩見沢市をフィールドにして社会課題を数理記述で定式化して、実課題を解くための研究を進めています。数理応用と社会実装を両輪で進める研究です。
竹本:少しアニーリングとは離れるのですが、岩見沢市では様々な社会課題への取り組みを進めています。高齢化社会における生活支援、地産地消エネルギーの活用など多くの最適化問題が課題として上がってきます。短期運用が求められる問題だと情報の変化に合わせて動的に解く必要があるものもありますし、長期評価を前提とした問題だとアニーリングで解くこともあります。岩見沢市と議論しながら、社会課題の解決に向けた様々なアプロ―チを実践しているところです。
日立北大ラボの成果はどのような形で社会に還元できているのでしょうか。
竹本:日立北大ラボでは、北大COIの中心企業として、岩見沢市と協力して、腸内環境に着目した母子健康調査を推進して来ました。この調査ではプレママから学童まで、便や血液、母乳、食事などのさまざまな健康データを取得・解析して、母子の健康と子どもの発達の関係を調査しています。科学的な解析はこれから何年もかけて進めないといけませんが、調査を通じて市民の意識が変わってきて変化が生じています。2014年に10.4%だった岩見沢市の低出生体重児の比率は,2019年には6.3%まで改善しているのです。調査が市民の意識を変えて、栄養状態を改善させ、健康な子どもが増えている。市民を巻き込んだ社会実装を通じて、課題共有による行動変容を促すことで社会課題解決につながっている事例です。
CMOSアニーリングによって、様々な最適化問題が解決できる能力が得られたとき、社会課題とアニーリングを結びつける問題意識を持つことが必要です。自治体などと課題共有することが大事だと思います。
CMOSアニーリングで社会課題が簡単に解けるようになっていくのでしょうか。
水野:世の中には、問題を作ることが得意な人と、解くことが得意な人の2種類の人がいるように感じています。問題を解くことが得意な人のほうが圧倒的に多いように思います。社会課題でもビジネス課題でも、課題はわかったとしても、それをどうやって解くべき問題に仕立てるのか?それが一番難しいと感じています。
竹本:そうなんです。良い問題を作るのは難しいです(笑)。母子の健康問題も、問題を顕在化して解くべき課題を共有できたことが良かったのだと思います。問題を顕在化し社会に気づきを与えたことで、本来考えていたアプローチよりも早く、解決へ向けて大きく歩みを進めることができました。複雑な問題を突き詰めて、具体的な問題として定式化する力をつけていくことが必要だと感じています。日立北大ラボでは、解決したい社会課題を数理モデリングで定式化して、大学連携でアルゴリズムを考える楽しさも加味した、実問題のオープンプログラム化によるプログラミングマラソンを毎年開催しています。
北海道で日立北大ラボが活動していることの価値をどう感じますか。
竹本:北海道に来て、地元の企業と付き合ってみて、日立には様々なことに抵抗なくチャレンジできる人が多いと感じます。量子コンピュータを様々な分野で社会実装していくために、むしろ総合電機メーカーの強みが活かせると思います。一方で北海道では、日立は大企業として敬遠されがちなのも事実なので、「日立北大ラボ」という形でのアプローチは、社会実装のための敷居を下げるために役立っていると感じますね。
5年後、10年後の量子コンピューティング
今後の目標として想定している方向性はどのようなものでしょうか。
水野:量子コンピュータで解くべき問題という意味ですね。日本の現状で問題と感じているのは、「みんなでめざすべき新しい目標を見失っている」ということでしょう。生活が豊かになり、消費するだけの社会になってしまったら悲しい。SDGsは人類として目指すべきゴールと言えますが、このような目標を持つ必要があると思います。「スマート化」は便利な言葉ですが、効率だけを求めることになりがちです。「その先」の、効率化だけではないBeyond Smartな目標を設定したいです。
竹本:そういう意味では、日立北大ラボの取り組みからの気づきは多いです。若い人や女性などの意識がどんどん変化しているのを実感しています。例えば、道内の高校に協力頂いて、高校生が自ら課題を設定して解決策を探求する授業「北海道の課題発見!」を実施しているのですが、災害時における高齢者と若者の情報格差やバリアフリー解消などの課題に短期間でプロトタイピングして答えを導き出したりしています。自分ごととして考えることが重要で、若い人を中心にそうした取り組みを続けていくことで、新しい発見や気づきにつながることを期待しています。
2020年から国のムーンショット型研究開発事業に採択されていますね。
水野:ムーンショット型研究開発事業は、従来技術の延長にない大胆な発想に基づく挑戦的な研究開発を推進する事業です。7つある目標のうちの1つに量子コンピュータの開発が含まれ、量子コンピュータの開発の中で日立はシリコン半導体技術で実現する「大規模集積シリコン量子コンピュータの研究開発」のプロジェクトを担当しています(Grant#: JPMJMS2065)。ムーンショット型研究開発事業では、2050年に汎用量子コンピュータを実現することを最終的な目標にしています。
ムーンショット型研究開発事業 プログラム紹介 ムーンショット目標6
+ https://www.jst.go.jp/moonshot/program/goal6/index.html
5年後、10年後の日立の量子コンピュータの姿は。
*山岡:**CMOSアニーリングはいまようやく黎明期を迎えたところです。5年後、使う人が増えて、もっと浸透してほしいなと思います。世の中の人が気づいたら「ここに入っていたんだ」といった状態にしたい。5年後はそこまでいかなくて、知る人ぞ知るであっても「CMOSアニーリングInside」のような形で日立の技術が入っている。そして10年後には知らないうちにCMOSアニーリングを使っている、そんな世界を見つめています。
竹本:社会課題の解決は長期的な取組みを要することばかりです。北海道では、少子高齢化、人口減少、過疎化等、多くの課題があります。一方で北海道は、再生可能エネルギーや食料自給等、高いポテンシャルがあることも事実です。今後迎える、食糧難、環境問題、少子化対策などの、社会課題を解決するための地域モデルを、新しい計算機の力も借りて北海道の地で構築し、全国・世界展開していくような姿を考えています。今後さらに社会課題が深刻化していく時代に、CMOSアニーリングやシリコン量子コンピュータの力が社会貢献につながると良いと思います。
水野:CMOSアニーリングもゲート型のシリコン量子コンピュータも、日立にとっては社会課題の解決や社会イノベーションのための手段です。ただし、手段だから他の方法でもいいという逃げにはしたくないです。CMOSアニーリングはすでに実用化しましたし、シリコン量子コンピュータも2027年までには実験的なものであっても日立以外の人にも何らかの形で使えるようにしたいと思っています。量子コンピュータが広く社会課題の解決に役立つ世界を早く実現したいですね。
CMOSアニーリングマシン成果の一部は、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の委託業務(JPNP16007)の結果得られたものです。
プロフィール
※所属、役職は公開当時のものです。
水野 弘之(Mizuno Hiroyuki)
日立製作所 研究開発グループ
基礎研究センタ
主管研究長兼日立京大ラボ長
量子コンピューティング技術は強力なツールになると思いますが、当然、これで全てが解けるわけではなく、技術の理論的な限界をきちんと押さえておくことは大切なことだと思っています。そこで、『WORLD BEYOND PHYSICS:生命はいかにして複雑系となったか』(スチュアート・A・カウフマン著、森北出版)を紹介します。
この本は生命が誕生した理由や、進化を物理法則で説明できるのかについて書かれています。生命の「進化」は、人間の「モノづくり」とは全く異なるアプローチで世界を作っており、幾つも学びがあります。
山岡 雅直(Yamaoka Masanao)
日立製作所 研究開発グループ
テクノロジーイノベーション統括本部
計測イノベーションセンタ
エッジコンピューティング研究部
部長
おとぎ話のような本ですが、高校の時に読んた「ドラゴンランス戦記」という本のラストに感銘を受けました。
中世の騎士や魔法使いがいる世界で、主人公のグループが悪の勢力を一新するお話です。そのラストシーンで主人公が「悪が一掃されて平和が戻った」と言うと、偉大なる魔法使いが「世の中はバランスで成り立っていて、善悪がいるから正常に動いている。自分は善と思っても相手から見ると悪だ」ということを言い、物事の多面性、そして、バランスの大事さに気づかされました。この気づきは今でも研究活動に活きています。
竹本 享史(Takemoto Takashi)
日立製作所 研究開発グループ
基礎研究センタ
日立北大ラボ
ラボ長代行(北海道大学客員教授)
何かに行き詰まった時に、手に取りたくなる一冊として「旅をする木」(星野道夫著 文春文庫)を紹介します。アラスカでの生活が生き生きと描かれ、壮大な自然が思い浮かび、心が安らぎます。情報があふれている現代社会において、忙しなく結果を追い求めがちですが、物事が思い通りに進まなくても、その時々の経験や出会いを大切に過ごしていくことの意義に気付かされます。まちづくりにおいても、共通点を感じます。住みよいまちは人それぞれあり、多様な価値観を受け入れることで、これまで気付かなかった、忘れかけていたものが見えてくるように思います。