人間活動の影響により、資源の枯渇や環境汚染などのさまざまな課題が顕在化しています。研究開発グループでは、「プラネタリーバウンダリー」を重視し、地球課題の解決に貢献する技術の開発とともに、持続可能な社会へのトランジション(移行)の道筋を探求する活動を推進しています。その成果である「人新世のための音響プラネタリウム・モジュール」、「未来のためのヴォイス・メッセージ」、「AIと持続可能性トランジション」について、取り組みを主導したプラネタリーバウンダリープロジェクト 佐々木剛二主管研究員に話を伺いました。論文やレポートだけでは届きにくい地球環境の課題を、音楽や声、デジタル体験を通じてどう「自分ごと」へと変えていくのか。若い世代を含む多くの人々に向けて、未来への想像力と希望の大切さを発信した背景、持続可能な社会への道筋を構想する活動に託した思い、そして研究の現在地について語ります。
「アテンション・エコノミー」の中でトランジションの道筋を探求する
地球環境を取り巻く課題が深刻化する中で、環境変化の許容範囲を示す「プラネタリーバウンダリー」の概念が注目されています。日立はこの概念を経営方針に取り入れており、プラネタリーバウンダリー、人々のウェルビーイング、そして経済成長の3つが調和する世界「ハーモナイズドソサエティ」をめざしています。研究開発グループでは、環境負荷の軽減と地球の持続可能性の向上に貢献するため、持続可能な社会へのトランジション(移行)の道筋を探求する活動を推進しています。
この中で私が中心となって取り組んできたものに、「人新世のための音響プラネタリウム・モジュール」、「未来のためのヴォイス・メッセージ」、「AIと持続可能性トランジション」があります。
これは「音」という体験を通じて、地球環境についての深い学びと思索を促す施策で、取り組みの背景となっているのが「トランジションズ・リサーチ」です。現代の最も先進的な知見をもとに、社会の持続可能な変革のための取り組みを行えるよう、国際的なリーディング機関の研究者や各分野の専門家との対話を行い、そこで得られた内容を日立や幅広いオーディエンスと共有する。こうしたトランジションズ・リサーチという活動を主導してきました。
地球環境やサステナビリティにかかわる問題には、多くのアクターがかかわっています。研究開発においても、何か1つの分野を掘り下げるというよりは、政策、地球環境科学、持続可能性、さらには人類学や歴史学など、幅広い領域をまたぐ視点でアプローチすることが必要です。その上で、人間の社会を真に持続可能な未来へみちびくためには、研究開発とも少し異なる視点が必要になります。
また、もう1つの背景には、日本では自然の復興や気候変動対策など地球環境問題への関心が、特に若年層において他の先進諸国と比較して低いという調査データがあります。市民の関心が高まらなければ、本来起こすべき社会の変化は勢いを失ってしまいます。
かつて私が大学の特任教員を務めていたとき、学生たちから「先生、僕らはもう本なんか読みませんよ」と言われたことがあります。自分自身の学生時代とは異なり、今の若い世代はソーシャルメディアから膨大な情報を得ています。さらに、ショート動画のような中毒性のある、注意力を奪うコンテンツもあふれています。
こうしたアテンションエコノミーの時代に、プラネタリーバウンダリーのような深い思索が必要なテーマをテキストで渡しても読んでもらえないでしょう。ただ呼びかけるのではなく、どうすれば本当に自分ごととして考えてもらえるかを設計する必要があります。地球環境について深く考え、生き方を見つめ直すきっかけになるような時間を、どうすれば提供できるのか。考えた結果、デジタル・エクスペリエンスを使ってみることにしました。

デジタルネイティブ世代にも訴えかけ、考えるきっかけに
「人新世のための音響プラネタリウム・モジュール」では、あえて古いラジオのように操作するインターフェースを採用しています。スマートフォンに慣れた今の若者世代に、「これは何だろう」と好奇心をもって触ってもらえるものにしたかったのです。スイッチを入れるとすぐに音が聞こえるわけではなく、チューニングが合うとコンテンツを聴くことができるという、ちょっと能動的な操作が必要な仕掛けになっています。
現時点で実際にトランジションを担う私たちやそれより上の世代には、ノスタルジーを、若い世代には新鮮さや「エモさ」を感じてもらうため、1970~80年代のコンピューターやオーディオ機器のような少し古いインターフェースを意識しました。情報を冷たく流すのではなく、古い機械が持つ温かみや記憶を呼び起こすデザインにすることで、自分と情報との間に関係性を感じられるようにしたかったのです。このウェブサイトのデザインと開発において、私が提出した膨大なデザイン・スタディを見ながら制作を行ってくださった、牛込陽介さんとマイケル・ペシルノさんに深く感謝しています。
ぜひ実際に操作して視聴いただきたいのですが、「人新世」、「プラネタリーバウンダリー」、「持続可能なトランジション」という3つのテーマに関するナラティブチャンネルと、5つの音楽チャンネルがあります。ナラティブチャンネルは、学術的な知見にもとづいて、現代の地球環境の状況やあるべき社会の変革について基礎的な考え方を音声で学ぶことができます。音楽チャンネルでは、モジュラー・シンセサイザー、エクスペリメンタル・ソウル、アンビエント、ピアノといった多様なジャンルの音楽を再生でき、それぞれのテーマについて深い内省を促すように設計されています。
制作にはドイツの作曲家・ピアニストのBenyamin Nussさんをはじめとする4名の音楽家の方々が協力してくださいました。さらに、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)をはじめとする重要な団体にご協力をいただき、重要な科学的ダイアグラムを「ヴァーチャル・カード」として表示するようになっています。音声を聞きながら、このカードを見ることで、人新世、プラネタリーバウンダリー、そしてトランジションに関する基礎的な理解を得ることができると思います。
ポツダム気候影響研究所の所長で、プラネタリーバウンダリー研究の第一人者であるヨハン・ロックストローム博士、ストックホルム・レジリエンス・センターの研究者の方々、人権と環境問題とのかかわりについて示唆に富む分析をされている文化人類学者のギスリ・パルソン博士らとトランジションズ・リサーチの中で対話してきた内容を、単なるレポートではない形式にまとめています。
専門的な知識がない方でも、見て、聴いて、感じられるエクスペリエンスになる。プラネタリウムのように感覚的な喜びの中で、私たち自身のあり方について内省が生じるような体験をめざしました。もちろん、ここでの「プラネット」とは私たちにとっていちばん大切な惑星、地球のことです。
思索の余白を生む音楽と、自然との調和
音や音楽は、古来から人間と自然の間、個人と共同体の間をつなぎ、人間の日常的な心理的経験と不可分のものとして存在してきました。人類の歴史と音楽の歴史はほぼ同じくらい長く、人間は音楽を媒介して、他者と関わり、自己の人生と宇宙の関係を理解してきました。
テキストによる報告書やショート動画だけでは、地球環境の危機に意識が向かないのであれば、音楽や人間の声を通じたコミュニケーションは、きわめて有効な選択肢になるはずです。テキストなら一瞬で閉じられてしまう内容でも、音楽が流れたら少し立ち止まってもらえるかもしれない。アンビエント音楽のように思索の余白を生む音楽を用いることで、自然との調和というきわめて重要なテーマについて考えていただくための時間を生み出すかもしれません。

音響プラネタリウム・モジュールでは、思想を押しつけるわけではなく、すでに科学的に明らかになっているのに自分のもとに届いていなかった情報や事実に向き合う時間を持っていただきたいと思っています。
自然と調和している感覚というのは、おそらくじんわりとした喜びや内的な安らぎの感覚を伴っていると思います。このウェブサイトでは、さまざまな科学者と音楽家の視点を融合しながら、その感覚を見出すための入り口になるような経験を提供できればと思いました。実際、このウェブサイトを体験した方々の中には、食べ物や買い物の持続可能性について考え、自分の暮らしを見直すようになった方もいらっしゃいます。
ポリクライシスの時代における未来への呼びかけ
2024年8月に発表した「人新世のための音響プラネタリウム・モジュール」における考え方を応用し、2025年10月に発表したのが「未来のためのヴォイス・メッセージ」です。このプロジェクトに取り組んだ背景には、2024年に「持続可能な開発目標(SDGs)」がその達成の軌道からはずれているという報告がありました。気候変動、紛争、パンデミック、世界経済の分断などが重なり、持続可能な未来を築くための努力が停滞している。これは、ポリクライシス(複合危機)とも呼ばれています。
2024年9月にニューヨークの国連本部では、「未来サミット」が開かれ、こうした状況への認識とともに、世界規模の課題の解決における「未来世代への責任」や「青年の参画」の重要性が強く訴えられました。私も参加したのですが、サミットに集まった世界中の若いリーダーたちの熱意と意志を目の当たりにし、日立という企業につらなる私たちが社会イノベーションを通じて果たしていくべきグローバルな役割をあらためて考えさせられました。

その後、戦争や経済的分断を通じて、世界の秩序には大きな混乱が生じ、持続可能性への取り組みにはさらなる逆風が生じています。しかし、このような時代だからこそ、若い世代に向けて、希望を持てるようなメッセージを届けたいと考え、「未来のためのヴォイス・メッセージ」という小さなプロジェクトを立ち上げました。
このヴォイス・メッセージは、3つの映像をバーチャルなミニディスク(MD)に収められたコンテンツとして見ることができます。それぞれのMDにはジャンルの異なる音楽に織り込まれる形で、社会哲学者、国際連合の指導者、気候運動家のヴォイス・メッセージが記録されています。さらに、これにもとづくブックレットとして、プラネタリーバウンダリーにかかわる最新の研究、国連の「未来サミット」をめぐる動き、「よき祖先となる」ということはどういうことか、などの説明をまとめています。
(ミニディスクは、ソニーグループ株式会社の登録商標です。)
危機の中の「希望」を共有する3つのメッセージ
このプロジェクトには1つの共通のテーマがあります。それは、アメリカの作家レベッカ・ソルニットが、著書の『暗闇のなかの希望』で訴えたメッセージと響きあうものです。彼女によれば、希望とは、誰かから外的に与えられるものではなく、未来に対して自らが結ぶ約束、コミットメントのことなのだといいます。たとえ一人でできることは小さく、影響を及ぼせる範囲は狭くても、自らが起こす変化によって、別の新しい変化が生まれ、それが次の変化につながるかもしれません。歴史をゆるがす大きな変化は、しばしば危機の時代に、世界の片隅の小さな運動として生じてきました。小さな変化を起こしながら、その結びつきを広げていくことが、希望の源泉といえるのです。

メッセージは3人の方にお願いしました。1人目はイギリスの哲学者、ローマン・クルツナリックさんです。著書『グッド・アンセスター』の中で、未来の人々にとって「よい祖先」として記憶されるよう行動し、現在の社会を建設すべきだと述べておられます。しかし、現在の世代による地球環境の収奪は、未来を生きる人々の幸福や生存に大きな制約を課しています。「すばらしい社会を残してくれた」と思ってもらえるように、今の私たちは行動しなければならない。映画のテーマ曲のようなBenyamin Nussさんのピアノ曲を背景に、短期主義を抜け出し、長期的な未来をまなざす重要性について語っていただいています。
2人目は国連大学のチリツィ・マルワラ学長(国連事務次長)です。マルワラ学長には、未来サミットで採択された「未来への協定」が世界の指導者たちが若者の声に耳を傾け、若者と協力してより公正で持続可能な未来を築くための誓約であることを説明していただいています。AIなどのテクノロジーを自らのアイデアやローカルな知識に基づいて社会変革に役立てていくよう、青年への励ましのメッセージをいただきました。そしてWac-Loungeさんの音楽は、あたかも穏やかな木漏れ日の中で学長と対話をしているかのような感覚をもたらします。
3人目はイギリスの気候活動家、クローバー・ホーガンさんです。気候変動対策を訴えても社会の変化がなかなか伴わないという状況下で、無力感をおぼえている方々に向けたメッセージを寄せていただきました。歴史を振り返ると、後世に正しいと認められることがその時代に受け入れられるとは限らないけれど、受け入れられようと闘った人々が未来を切り開いてきました。気候変動に対する活動も同じだと信じて、自分が正しいと信じる道を行こうと話しています。グラミー賞受賞の経験もあるMichael Louisさんによるノスタルジックで瞑想的な音楽の中で、ホーガンさんとの率直な語り合いを感じていただきたいです。
声にはその人自身の人格や思いが宿ります。真偽が定かでない、人間が作ったかどうかもわからない情報が無数に拡散する世界で、ヴォイス・メッセージは、語り手の存在感との情緒的なかかわりを生み出してくれます。また、音楽のなかに音声を埋め込むことで、一対一で会話をしているような感覚が持てるのではないかと考えました。地球の未来に関わる音楽に耳を傾けていただきながら、時間をかけてメッセージを受け止めてほしいと考えています。

AIと持続可能性トランジションについての共同探索報告書
さきほど申し上げたようにポリクライシスの状況が続いている中で、持続可能な社会を実現する努力は困難に直面しています。一方で、人間の暮らしに大きな影響を与えるものとしてAIの存在感が急速に高まっています。AIは人々の問題解決を支援することで持続可能性にプラスに働く可能性があるものの、データセンターの電力消費、雇用、産業、民主主義などにマイナスの影響を及ぼす可能性も指摘されています。そのため、AIを社会全体の文脈のなかで捉え直し、影響について理解しなければなりません。
こうした背景のもと、日立はコロンビア大学気候大学院「持続可能な投資センター」(CCSI)とAIの持続可能性トランジションへの影響に関する共同報告書「AIと持続可能性トランジション」を発表しました。
この報告書では、AIが持続可能性トランジションに与える影響について、「地球環境」「エネルギーシステム」「産業・労働」「金融」「民主主義と社会的レジリエンス」の5つの分野から、機会とリスクの観点で分析しています。そして、AIの機会を最大化し、リスクを最小化するためのグローバルなガバナンスのあり方を提言しています。
また、この報告書は「ミクストメディア型」としてデザインされており、研究の内容への関心を持っていただくため、2種類の映像も制作しました。約3分間の「予告編型映像」は、この研究が投げかける「問い」を、革新的な作曲手法をもちいて活動するJoshua Warnerさんの音楽とともに伝えています。鮮烈な映像を通じてAIと地球に訪れようとしている未来を感じていただければと思います。
約1時間の「音響コンセプト型映像」は、音楽とともに報告書への理解を深め、深く思索していただくための時間をもっていただくことをめざしてデザインされています。ベルギーのRoméo Poirierさん、韓国のSalamandaさん、アメリカのJoy Guidryさんほか、現代のアンビエント音楽の重要なアーティストに参加いただいています。音楽が生み出す時間的感覚のなかで、AIにかかわる賢明な選択のための思索を行っていただければうれしく思います。
関連コンテンツ
本報告書をより多くの方に届け、本研究の内容への関心を深めていただくため、2種類の映像も制作しました。約3分の「予告編型映像」は研究が投げかける「問い」を共有し、約1時間の「音響コンセプト型映像」は音楽とともに報告書への理解を深め、内省を促します。
・予告編型映像(英語):
AI and Sustainability Transitions | Introduction - Hitachi
www.youtube.com・音響コンセプト型映像:
AI and Sustainability Transitions | Audio Companion - Hitachi
www.youtube.com持続可能な世界へのトランジションは、日立一社だけで実現できるものではありません。あらゆるアクター、あらゆるステークホルダーが関わる課題です。だからこそ、多くの方々に関心を持っていただくとともに、日立をパートナーとすることで何ができるかを一緒に考えていただきたいと思っています。トランジションはビジネスに限らず、研究者の方々、社会システムを考える方々、デザインやアート、クリエイティブに関わる方々にも開かれたテーマです。ご紹介した3つのプロジェクトも、説明だけでは伝わらない部分があります。ぜひ実際に視聴して、考え、行動するきっかけにしていただければ幸いです。
プロフィール

佐々木 剛二
日立製作所 研究開発グループ Next Research
主管研究員
博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了後、日本学術振興会特別研究員、東京大学学術研究員、森記念財団都市戦略研究所研究員、慶應義塾大学特任講師などを経て現職。人類学、移民、都市、持続可能性などに関する多様なプロジェクトに携わる。日立製作所では、持続可能性トランジションにかかわる分野横断的プロジェクトを主導。著作に『移民と徳』(名古屋大学出版会)など。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。










