学びとは何か―〈探究人〉になるために』をはじめとする多数の著書を通じ、人間の言語習得や学習、思考のメカニズムを解き明かしてこられた慶應大学名誉教授の今井むつみ先生をお迎えした講演会。後半は、人間とAIの本質的な違いに迫ります。人間ならではの創造性、柔軟性を支え、知的能力を拡張する「スキーマ」「アブダクション」とは?超一流の熟達者が行う「逸脱」とは?

今井むつみ先生講演会(前編)

画像: 講演の後半は、人間の意思決定の特徴である「アブダクション」を軸に話題が展開した

講演の後半は、人間の意思決定の特徴である「アブダクション」を軸に話題が展開した

意思決定の鍵「実用スキーマ」とは

ここまで見てきたように、人間は必ずしも論理的でも合理的でもありません。人間は確率を誤解し、ベースレートを無視し、表現の違いに大きく影響されます。一方で、AIはビッグデータを用いて統計的に最適解を導くことができます。合理性という一点だけを見れば、AIは確かに強力です。しかし人間は、演繹(えんえき)推論や期待値計算とは別の仕方で世界を理解しています。

ウェイソンの4枚カード問題と呼ばれる問題をみてみましょう。

画像: 私たちが案外論理的に考えていないことを、この小さな実験が教えてくれる(今井先生のスライドより)

私たちが案外論理的に考えていないことを、この小さな実験が教えてくれる(今井先生のスライドより)

「片面が母音なら、その裏面は偶数でなければならない」という規則が守られているかを確認する課題では、正答率は約25%にとどまります。ところが同じ論理構造を「未成年飲酒の取り締まり」という具体的状況に置き換えると、正答率は大きく上がります。

画像: 先ほどの数字とアルファベットのカードに比べて、かなり正解率が高いことがわかる(今井先生のスライドより)

先ほどの数字とアルファベットのカードに比べて、かなり正解率が高いことがわかる(今井先生のスライドより)

なぜでしょうか。人は抽象的な演繹論理を適用しているのではなく、状況に応じた「実用スキーマ」を用いて推論しているからです。未成年が酒を飲んでいないか、酒を飲んでいる人が未成年でないかを確認するという判断は、経験的な常識に基づく判断です。つまり、人間は形式論理よりも、経験から形成された枠組みによって推論しているのです。

スキーマとは、経験を通じて無意識に形成される知識の枠組みのことで、外界から入ってくる膨大な情報の中から何を選び、どう解釈し、どう記憶するかを決めています。対象に触れた瞬間の「好き」「嫌い」といった無意識の評価が価値観と結びつき、情報を取捨選択するためのフィルターとして機能しているのです。ですから、人間の情報処理は本質的に主観的です。

人間にはコンピューターほどの計算能力はありませんし、記憶力にも制限があります。また、人間の生きる環境は非常に広く、さまざまな環境に適応しなくてはいけません。だからこそ、ある種のバイアスを持って重要そうな情報を素早く選び取り、推論する仕組みが進化の過程で必要だったのではないかと考えられています。

そのときに用いられるのがアブダクション(仮説推論)です。アブダクションとは、正解が一義に決まらない、論理の跳躍を伴う非論理推論のことです。帰納推論が基本的には未来予測であるのに対し、アブダクションは遡って原因を考えたり、目に見えないメカニズムを考えたりするときに力を発揮します。

赤ちゃんが行う統計的処理

人間も統計的処理を行わないわけではありません。赤ちゃんが言語を習得するための最初の課題は、連続して聞こえてくる親の声から単語を切り出すことなのですが、赤ちゃんは、ある音とある音がどれくらいの頻度で連続するか、この音の後にどの音が来やすいかといった統計的パターンを無意識のうちに抽出し、どこに単語の切れ目があるかを推測します。意味を理解する以前に、まず統計情報を手がかりに構造を発見しているのです。しかし、確率だけでは言語は獲得できません。どこかで「これは1つの単語だ」という仮説を立てる跳躍が必要になります。ここでアブダクションが働きます。統計的処理とアブダクションは連続しています。確率に基づきながら、そこから一歩踏み出す推論が、知識拡張の原動力になっているのです。

アブダクションにより、私たちはごく限られた断片的な情報から、背後にある構造や意味を推測し、全体像を組み立てることができます。たとえばジグソーパズルを思い浮かべてみてください。まだごく少数のピースしかはまっていない段階でも、私たちは全体の絵を推測し始めます。「これは風景画だろう」「ここに人物がいるはずだ」といった仮説を立て、足りない部分を想像で埋めていく、その働きこそがアブダクションなのです。

画像: 「赤ちゃんはどのように言語を習得するのか」。今井さんご自身の研究成果からお話しいただいた

「赤ちゃんはどのように言語を習得するのか」。今井さんご自身の研究成果からお話しいただいた

「アブダクション」は人間の知識を拡張する原動力

ビッグデータを用いるAIの学習は、ジグソーパズルのほとんどのピースがすでに埋まっていて、残り1%を補完するような作業に近いのではないかと思います。一方、人間はごく少数のピースから一気に全体像を描いてしまう。人間の推論の特徴はそこにあると感じています。人間は大量のデータを同時に処理できません。だからこそ、スキーマを用いて少ない情報から一気に「面」を作る必要があります。さらに人間には、一見無関係に見える分野同士を結びつける力があります。ノーベル賞級の発見には、別分野の視点やアナロジーが重要な役割を果たしています。

日常生活でも、私たちは常にアブダクションを行っています。たとえば、『100万回死んだ猫』という本があります。これは、『100万回生きたねこ』を『100万回死んだ猫』と言ってしまうというような、図書にまつわる言い間違えを集めた本です。検索システムに『100万回死んだ猫』と入力しても該当の図書は見つかりませんが、司書は断片的な情報から推測することができます。このように、誤りを含んだ情報から元の意図を復元できるのは、アブダクションの力があればこそです。

また、人間の子どもは、一匹のウサギを指して「これがウサギだよ」と聞くと、アブダクションを働かせて、他のウサギも「ウサギ」なのだと言葉の適用範囲を一気に広げることができます。これは論理的には大胆な飛躍ですが、言語習得のためには必要なことです。科学的仮説も同様です。たとえば高い山の頂上で貝殻が見つかったとき、仮説として「かつてそこは海底で、地殻変動によって隆起したのではないか」と推測することができます。これは形式論理的には後件肯定の誤謬(ごびゅう)※を含みますが、このような仮説生成があればこそ、科学は成り立つことができます。

※後件肯定の誤謬…「AならばBである」という前提において、後件のBが成立したからといって、前件のAも成立していると短絡的に結論づけてしまう論理的な間違い

直感と熟慮を使いこなす

私たちは日常的に、勘違い、思い違い、早合点、といった誤りを犯していますが、これは精度の低いアブダクションによるものです。しかし、精度の高いアブダクションは、新しい知識を生み出し、世界の見方を拡張する源になります。精度の差を生むのが、初心者と熟達者の違いです。熟達とは、アブダクションの精度を高めるプロセスだとも言えます。

人間は赤ちゃんの頃からアブダクション推論を行いますが、チンパンジーはしません。アブダクション推論ができるからこそ、人間は言語を習得し、科学を発展させることができたと言えます。人間にとって、アブダクションをしないという選択肢はありません。人間は、果敢にアブダクションをして、間違っていたら修正することで、アブダクションの精度を上げてきました。そうやって進化的にも、発達的にも歩み続けてきたのだと言えます。

ダニエル・カーネマンが示した「2つの思考システム」によると、人間は、「直感的で素早い」システム1と、「熟慮、吟味する」システム2を並行して使っています。システム1は感情を伴い、経験から得たスキーマに基づいて素早く仮説を立てる、いわばアブダクションの典型です。システム2は、演繹推論や統計的推論を使って検討する、批判的思考に近い働きです。生存の観点からは、省エネで即断できるシステム1がデフォルトになるのは自然ですが、そこには誤りも多く含まれます。ですから企業の危機管理などではシステム2が重視されます。しかし、サッカー試合中の司令塔や執刀中の外科医、トラブル回避中の航空機パイロットのように「ゆっくり考えている暇がない」場面では、熟慮だけでは間に合いません。望ましいのは直感を捨てることではなく、直感の精度を上げることです。将棋の棋士が終盤の秒読みの場面で瞬時に最善手を指すように、熟達者は洗練されたシステム1を持っています。

超一流の熟達者は「逸脱」する

ではAIはどうでしょうか。合理的判断や演繹推論ではAIが安定しています。しかし「合理的」と「善い」は同義ではありません。さらにAIには記号接地※の問題があります。言葉としては扱えても、身体経験に根ざした意味を持つことはできません。

※記号接地とは……AIが扱う文字や言葉、記号が、実世界の意味や感覚と結びついていないという認知科学上の課題。

超一流の人は、単に高い平均値を出すのではなく、「受け入れられる範囲の中での逸脱」を自在に行います。状況に応じて臨機応変に枠を越え、自分だけのスタイルを打ち出す、創造的な逸脱こそが独自性の源になっています。一方でAIは、大量のデータから学習し、平均的に質の高いパフォーマンスを再現することは得意ですが、その学習は過去のパターンの集積であり、原理的には平均値の延長にあります。ある直木賞作家は、AIが人間の創作物を学習し大量生産することで、未来の創作が過去作品の希釈になってしまうのではないかと懸念を示しています。

ただし実際には、超一流のクリエイターほどAIを道具として巧みに使いこなしています。たとえば松任谷由実は、生成AIで過去の自分の声を合成し現在の自分とデュエットさせる一方、作詞作曲は自ら手がけているのだそうです。創作に必要なのは、自分の内側に生じる小さな衝撃や違和感であり、「無難に整える」ことではないからです。AIが平均を磨く存在だとすれば、どこで逸脱するかを決める直感こそが、熟達者の核心なのかもしれません。

パネルディスカッションパート記事「今井むつみさんと考える、人間とAIの創造的思考」へ

プロフィール

画像: 今井むつみ先生講演会(後編)「人間はどのように思考し、意思決定をするのか。ブレイクスルーをもたらす創造的思考はどのように生まれるのか〜人間とAIの違いから考える」

今井 むつみ
一般社団法人 今井むつみ教育研究所 所長
慶應義塾大学名誉教授
文部科学省 中央教育審議会 専門委員(2025年1月~)
日本認知科学会フェロー。Cognitive Science Society Fellow(アジア初)

専門分野は、認知科学、特に認知言語発達科学、言語心理学
著書に
『学力喪失―認知科学による回復への道筋』『算数文章題ができない子どもたち ことば・思考の力と学力不振』(共著)『言語の本質』(共著)『ことばと思考』『学びとは何か―〈探究人〉になるために』『親子で育てることば力と思考力』『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策』『英語独習法』『人生の大問題と正しく向き合うための認知心理学』ほか多数

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