2026年2月5日、日立製作所 研究開発グループの協創の森にて、『学びとは何か―〈探究人〉になるために』をはじめとする多数の著書を通じ、人間の言語習得や学習、思考のメカニズムを解き明かしてこられた慶應大学名誉教授の今井むつみ先生の講演会が開催されました。
「人は論理的に考えている」と私たちは思いがちですが、実際には、論理や合理性よりも感情を優先し、きわめて主観的な意思決定をしています。一見すると弱さとも取れるそうした特性の意外な可能性についてお話しいただきました。

画像: 人とAIの違いについて、認知心理学の視点から何が見えてくるだろうか。

人とAIの違いについて、認知心理学の視点から何が見えてくるだろうか。

見える世界は人によって異なる

認知心理学は、理系と文系のあいだに位置する学問です。哲学のように「人間とは何か」という根本的な問いを扱いますが、方法はきわめて実証的です。実験とデータの積み重ねによって、人間を科学として理解しようとします。扱う範囲は非常に広いです。まずは「人間には世界がどう見えているのか」といった感覚処理のメカニズムを研究するレイヤーがあり、その上に人の「認識」を研究するレイヤーがあります。さらに「言語」という要素が加わり、言語と認識がどう関係するのか、言語と記憶がどう影響するのかを考えるレイヤーが出てきます。そして最終的には「人が思考し、判断し、意思決定をするとはどういうことか」を扱うレイヤーが見えてきます。

私たちは隣の人と同じ世界を見ていると思っていますが、実はそうとは限りません。これは「クオリア」と呼ばれ、認知科学では大きな問題になっています。
※クオリアとは……五感を通じて感じる、主観的な質感のこと。赤い夕日を見て「赤いな」と感じることなどが含まれる。

これは割と有名な実験なんですが、この写真のドレス、何色に見えますか?

画像: 私たちは無意識の推論を経てモノを見ている(今井先生のスライドより)

私たちは無意識の推論を経てモノを見ている(今井先生のスライドより)

今日は、青と黒に見える人が9割と多いですね。これが青と黒に見える人と、白と金に見える人がいるのですが、私は何度見ても白と金にしか見えません(笑)。この違いは、仮定している光源の違いだという説があります。私たちは網膜に映ったものをそのまま見ているわけではなく、もともとは二次元の像として網膜に映ったものを、無意識の推論を経て三次元の像に補正して捉えています。その際に、太陽光を前提として捉えるか、人工照明を前提にして捉えるかで色の補正の仕方が変わってくるのだと考えられています。こんなふうに「感覚」のレイヤーにおいてさえ、私たちが世界をそのまま受け取っているわけではないことがよく分かります。

「善い判断」とは何か?

人生は判断と意思決定の連続です。仕事の進路のような大きな選択だけでなく、昼食をそばにするかカツ丼にするかといった日常的な選択も立派な意思決定です。では「善い判断」とは何でしょうか。一般には、論理的で合理的な判断が望ましいとされます。学術的な意味での「論理」は主に演繹(えんえき)推論を指しますが、実は、人間は必ずしも演繹を得意としていません。

たとえば学生に「この授業で単位を欲しければ、最低でも授業の80%は出席してね」と伝えたとき、「私は80%出席したのに不合格なのはおかしい」と訴えられることがあります。これは必要条件と十分条件の混同です。80%出席は合格の必要条件であって、それがあれば合格できるという条件ではありません。

もうひとつ重視されるのが合理的判断、つまり確率に基づく判断です。AIがビッグデータをもとに統計的にパターンを導き出して、次にすべきことを予測するのは「合理的な判断」に近いですね。ところが、人間はこの確率判断も苦手なんです。確率に則って判断するときは、最終的な状況での損得を考え、最も期待ができるポイントを割り出して選択するのが「合理的」だとされています。ところが、人間は驚くほどこれができません。

たとえば、

  • 20%の確率で45ドルもらえるくじ
  • 25%の確率で30ドルもらえるくじ

この場合、期待値が高い方を選ぶのが合理的です。

しかし次のような場合はどうでしょう。

  • 80%の確率で45ドルもらえる
  • 100%の確率で30ドルもらえる

この場合、期待値は前者の方が高くても、多くの人は確実にもらえる30ドルを選びます。

さらに損失の場面では、傾向はより顕著になります。

  • 90%の確率で50ドル失うが、10%の確率で損をしない
  • 100%の確率で5ドル失う

期待値で見れば5ドル確実に失う方が合理的ですが、多くの人は「損をしない可能性」に賭けてしまい、結果として大きな損失を被るリスクを選びます。

画像: 論理的で合理的な判断は、果たして「善い判断」なのか?

論理的で合理的な判断は、果たして「善い判断」なのか?

提示の仕方によっても判断が変わる

さらに興味深いのは、論理的には同じ内容でも、提示の仕方によって判断が大きく変わることです。

たとえば、600人が犠牲になる可能性のある伝染病の対策として、「200人が確実に救われる」と示されると多くの人がそれを選びます。ところが同じ内容を「400人が確実に死亡する」と言い換えると、今度は確率的な選択肢を選ぶ人が増え、判断が逆転します。数字の上では同じでも、「救われる」という利益の枠組みか、「死亡する」という損失の枠組みかで選択が変わるのです。これはフレーミング効果と呼ばれ、人間が数値そのものよりも、言葉が喚起する感情や印象に影響されることを示しています。

さらに、人間は確率判断の基本であるサンプルの分布も軽視しがちです。

ノーベル経済学賞を受賞した心理学者のダニエル・カーネマンの実験では、ジャックという架空の人物について、「保守的で注意深い」「日曜大工や数学パズルが趣味」といった、エンジニアを想起させるプロフィールを説明した後で、

  • 「30人のエンジニア、70人の弁護士」のいるサンプル1の集団の中で、ジャックが30人のエンジニアのうちの一人である確率は?

と聞いたときと、

  • 「70人のエンジニア、30人の弁護士」のいるサンプル2の集団の中で、ジャックが70人のエンジニアのうちの一人である確率は?

と聞いたときの結果が同じでした。つまり、人々はサンプルのことなど全く考慮せず、ジャックの特徴だけで、「あ、もうこの人はエンジニアだ」と決めつけてしまっていたのです。

判断を左右する「感情」と「バイアス」

では、合理的に確率を計算していないとすれば、私たちは何に基づいて意思決定しているのでしょうか。それは「感情」です。損失が生じるかもしれない場面では、「損をしたくない」という強い感情が働きます。期待値で見れば不利な選択でも、「損を回避できる可能性」がわずかでもあれば、そこに賭けてしまう。結果として大きな損失を被ることもあります。一方、利益の場面では逆の傾向が見られます。期待値がやや低くても、「確実にもらえる」選択肢を選びやすい。つまり、利益と損失とでは判断のパターンが反転するのです。

感情とともに大きな問題となるのが「バイアス」です。人間にはさまざまなバイアスがあります。そのひとつを、私は「知っているバイアス」と呼んでいます。私たちは日常的に言葉を使ってコミュニケーションしています。しかし、自分の考えがそのまま相手に伝わるとは限りません。その理由のひとつが、「言葉を知っていること」と「その概念を理解していること」を混同してしまう点です。自分がある言葉を知っていると、その意味も十分理解していると思い込みます。そして同時に、相手も同じように理解していると無意識に判断してしまいます。

たとえばビジネスの場では、「信頼関係を大切にしましょう」とよく言われます。「信頼」という言葉は誰もが知っています。しかし、何をもって信頼できる行為とするのか、何をすると信頼を失うのかは、人によって大きく異なります。文化が異なれば、なおさらです。それにもかかわらず、私たちは「信頼」という言葉を共有しているだけで、概念も共有できていると錯覚します。また、「水洗トイレの仕組みを知っていますか」と尋ねると、多くの人が「知っている」と答えます。しかし、実際にそのメカニズムを説明してくださいと言われると、ほとんど説明できません。日常的に使っていて馴染みがあるだけで、「理解している」と思い込んでいるのです。

このように、私たちは自分の知識や理解を過大評価しがちです。しかもそのことに、普段はほとんど気づいていません。説明を求められて初めて、自分の無知に気づくのです。意思決定もコミュニケーションも、こうした感情やバイアスの影響を強く受けています。人間が必ずしも合理的ではないという事実は、私たちの思考や社会のあり方を考えるうえで重要な出発点になります。

――後半では、人間とAIの本質的な違いについて、人間の思考の特徴である「スキーマ」や「アブダクション」といった概念を手がかりに、さらに掘り下げていきます。

今井むつみ先生講演会(後編)

プロフィール

画像: 今井むつみ先生講演会(前編)「人間はどのように思考し、意思決定をするのか。ブレイクスルーをもたらす創造的思考はどのように生まれるのか〜人間とAIの違いから考える」

今井 むつみ
一般社団法人 今井むつみ教育研究所 所長
慶應義塾大学名誉教授
文部科学省 中央教育審議会 専門委員(2025年1月~)
日本認知科学会フェロー。Cognitive Science Society Fellow(アジア初)

専門分野は、認知科学、特に認知言語発達科学、言語心理学
著書に
『学力喪失―認知科学による回復への道筋』『算数文章題ができない子どもたち ことば・思考の力と学力不振』(共著)『言語の本質』(共著)『ことばと思考』『学びとは何か―〈探究人〉になるために』『親子で育てることば力と思考力』『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策』『英語独習法』『人生の大問題と正しく向き合うための認知心理学』ほか多数

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