昨今、「市民が自ら考え政策決定に参加する」という新しいデモクラシーの可能性と課題が見えつつある。日立では「市民の一人ひとりが政治に主体的に参画し、自分自身の未来を自分で決める実感を持つことで、自らのウェルビーイングを向上させる」との仮説を立て、バランスの取れた情報の取得、政策効果のシミュレーションなど、市民の政治参加に寄与するAI技術の開発を模索しています。本対談では、市民の政策参画を考える上での「現状」、「めざすべき姿」、「課題」について、東京大学大学院法学政治学研究科 教授 谷口将紀氏から政治学者としての観点で、日立製作所 研究開発グループ 先端AIイノベーションセンタ メディア知能処理研究部 部長の鯨井俊宏からAI研究者の観点で意見交換しました。
偏重傾向にある情報社会
鯨井:政府や企業が情報を発信し、市民が受信する一方向のやり取りから、市民が発信者にもなり得る双方向のやり取りが可能になってきました。膨大な情報から市民が正しい情報を得るために、いまどんなことが課題になっていますか。
谷口:そうですね。情報を食べ物に例え、食堂で昼ご飯を食べるという場面を考えてみましょう。昔の社員食堂は、今よりもメニューは限定されていて、「洋定食か和定食」、「定食Aか定食B」のように、1〜2種類の日替わり定食を多くの人が食べていたのではないでしょうか。メニューが少ない代わりに、定食の中にはメインだけではなく副菜がついていたり、あるいはメインディッシュでも肉料理と魚料理が曜日代わりで交互に出たり、調理法も煮物、焼物、揚げ物というように、長い目で見ると栄養バランスを考えたメニューが提供されていたと思います。
政治コミュニケーションの世界では、新聞やテレビニュースが、この定食に該当します。スポーツやエンターテイメント情報ばかりではなく、政治や経済といった硬派な話題にも相当の時間が割かれている。それで、読者や視聴者がお堅い話題を目にすることができるわけです。
時代は変わり、今時の社員食堂は、メニューがとても豊富になりました。日立さんも、もしかしたらそうかもしれませんね (笑)。カフェテリア方式で、それぞれの人が自分の好みに合わせて料理をチョイスできる所も多いんじゃないでしょうか?そうすると、もし肉好きの人がいたら、今日も明日も明後日も、肉料理ばかりを食べることができる。あるいは麺が好きな人は、今日はラーメン、明日はうどん、明後日はそばといった具合で、魚や野菜は絶対口にしない。こういうことも可能になっています。そうすると、それぞれの嗜好は満たされるかもしれませんけれども、気をつけないと栄養が偏ってしまいそうです。
この例え話と似たことが、現在の政治コミュニケーションの世界では起きています。衛星放送やケーブルテレビの発達によって、テレビのチャンネルは飛躍的に増加しました。地上波のテレビなら、つけたままにしているだけでニュースが流れてきます。しかし衛星放送やケーブルテレビの専門チャンネルは、一日中映画だけ、スポーツだけといった自分の趣味だけを追求できます。
インターネットの普及は、この傾向に輪をかけました。アメリカの保守派は、同じ考えを持つ新聞、テレビ、ラジオから情報を得て、保守派の人々が集うインターネット媒体で意見交換します。同様にリベラル派の人びとは自分の周囲をリベラルな情報一色で固めてしまいます。このような行動を「選択的接触」と言い、その帰結は「エコー・チェンバー(反響室)効果」と呼ばれます。自分の関心に沿った情報ばかりに接し続けた結果、保守派、リベラル派ともに思想がますます強固になり、政治的分極化、政治対立が激化してしまうのです。
鯨井:エコー・チェンバーの状況を加速させる要因の一つに、「フィルターバブル」もありそうです。インターネットの検索サイトなどのアルゴリズムに利用者に興味のない情報を遮断され、自分の見たい情報しか見えなくなってしまう。自分と同じような意見の人同士で心地よい空間をつくれる一方で、異なる意見に触れる機会が減ってしまうというデメリットもあるわけですが、政治の世界でも同じような状況があるのですね。他に課題になっていることはありますか。
谷口:もうひとつの課題は「フェイクニュース」です。誤った情報だけでなく、はじめからだますことを目的に作られた偽情報が流通しています。
政治的分断を煽るための偽情報もたくさん流通しています。ロシアのウクライナ攻撃でも、ディープフェイクといって、本物と間違うような偽動画が流されていると話題になりました。
フェイクと真実を区別するファクトチェックも行われていますが、一つひとつのニュースをチェックするのには多くの時間とコストが掛かります。また、ある政治家が言ったことをジャーナリストが検証し、フェイクニュースと結論付けても、支援者は信じません。その政治家の言っていることの方が正しく、「ジャーナリズムの方がフェイクだ」と信じがちという研究もあります。
多様な観点で情報を得るテクノロジーが必要
鯨井:イーロン・マスク氏らが設立した人工知能研究の非営利団体「OpenAI」から、2020年に文章を自動生成できる「GPT-3」、2021年には文章から画像を生成する「DALL-E」が公開されました。これらの技術を用いて、メールや記事の文章を自動生成したり、コンピュータ用のコードを書いたりといった活用が進む一方で、ネット上に誤情報が大量に拡散する可能性も懸念されていますよね。
谷口:インターネットで買い物をするとき、過去の閲覧・購入履歴によるフィルタリングが行われ、嗜好に沿った商品を勧められることがあります。買い物ならば手間が省けて便利かもしれませんが、これはデモクラシー(民主主義)とテクノロジーの不幸な結びつきにもなります。
デモクラシーでは、結論を急がずに自分と異なる意見にも耳を傾け、議論し、じっくり考えるプロセスが大事です。AIをはじめとする新しい技術も、異なる意見を整理し、わかりやすく人々に提供したり、基礎となる情報の正しさを裏付けたりする場面で活用されると良いと思います。
鯨井:AIは、膨大な情報から必要な情報を見つけ出したり、情報を観点ごとに整理していくことが得意です。そうした技術で情報の発信・受信をサポートできそうです。
日立ではこれまでに、インターネット上に存在する要約文に対して、要約元の文書を検索し、要約文の根拠や背景情報を高精度に特定する技術*1を開発してきました。これにより、利用者が着目した情報の発信源を辿ることができるようになり、情報の信ぴょう性を評価しやすくなると考えています。
谷口:他にはどのような開発が行われていますか。
鯨井:ある施策に対し、経済面や治安面など複数の観点で記載された文章を大量のデータソースから探し出し、整理して示すことができる技術*2を研究開発しています。このような技術により、特定の観点に偏らず、多様な観点で情報を得ることができるようになるのではないかと期待しています。
熟慮を経て導き出された意見を得る
鯨井:社会や政治の情報化が進む中で、市民の本当の意見を吸い上げるには、どうしたらよいとお考えですか。
谷口:まっ先に思い浮かぶのが世論調査ですが、公正中立に行ったつもりでもバイアスが掛かってしまうんですよね。たとえば「新橋駅前でサラリーマン100人に聞いた結果」や「渋谷ハチ公前で若者100人に聞いた結果」は、日本人全体の世論を反映しているわけではないことは想像がつきます。最近では政府が行う世論調査でも回収率が低下するなど、非回収バイアスも深刻になりつつあります。
また、世論調査には「本当の意見とは何か」という問題もあります。「あなたは〇〇法案に賛成ですか、反対ですか」と質問されても、必ずしも全員が法案の内容を熟知しているわけではありません。
法案の提案者の意見や反対者の意見を聞く前と後では回答が異なるかもしれません。もちろん、自分にとって有益か否かによっても見方が変わります。わたしたちの知りたい世論とは、世論調査の電話口で瞬時に判断したような回答の集計結果ではありません。十分な情報を元に、熟慮を経た上で導き出された最終的判断の集計結果を知りたいのです。
鯨井:熟慮を経て自ら判断すると、自分の未来を決めている実感につながりそうです。たとえ意見が通らなかったとしても、反対意見のメリットやデメリットを理解しているので、納得しやすいのではないでしょうか。
AIの力で人々の熟慮・熟議をファシリテートする
谷口:アメリカの政治学者、J.フィシュキンは、熟議を経た世論を計測する手法として「討論型世論調査」を考案しました。例として従来型の世論調査を行った後で、回答者の中から集会への参加者を選び、小グループに分かれて資料に基づいた議論をしたり、不明点を専門家に質問する時間を設けたりした上で賛否の変化を調査します。
討論型世論調査には、実施までに越えなくてはならないハードルがたくさんあります。集会の実施にも多額の費用が掛かりますし、運営が公平・中立に行われるよう配慮する必要もあります。AIの力を借りて人々の熟慮、熟議をファシリテートすることはできないものでしょうか。
鯨井:熟慮、熟議を経て自ら判断し、未来を自分で決めている実感を持ってもらうためには、クリアする必要があるポイントが3つあると考えています。
1つ目は、議論や判断に必要な情報を理解できているか。AI技術によって、ウェブなどに点在する膨大な量の情報から必要な情報を収集し、議論の対象となる法案や行政施策などに対してどんな意見が出ているのか、さまざまな観点で整理して示すことができるようになる可能性があります。さらにファクトチェック技術を組み合わせれば正確な情報を提示できるようになり、議論や判断に必要な情報の理解を支援できるでしょう。
2つ目は、熟慮の上、自分の意見を言うことができているか。これに関しては、AI技術を用いてさまざまな未来シナリオを提示し、事前検証することで、問題点や解決の可能性を示せるようになると考えています。日立は、未来シナリオを描くための議論を支援するツール「Foresight」*3を用いた取り組みや、描いた未来シナリオを実現していくために必要となる政策を検討するためのツール「政策提言を支援するAI」*4の取り組みを進めています。多様な未来を描き、望ましい姿をイメージできれば、議論の対象となる法案や施策への理解も深まります。必要な情報への理解も促進できるでしょう。熟慮の上で自らの意見を発言しやすくなる効果も期待できそうです。
そして3つ目は、その意見が何らかの形で反映されていることが確信できるか、ですね。これについては、多様な観点を損なわずに中立的な立場でファシリテートできれば、さまざまな意見を取り込みながらコンセンサスを得られるのではないかと考えています。議論の観点や発言者のモニタリングをAIで行うことで、ファシリテートの支援や自動化も実現できると考えています。また、決定された施策の効果を継続的にモニタリングし、市民に示すことで、市民は自分たちの選択の結果を知ることができるようになるでしょう。
市民が政策決定に関与するために政治のDX化が必要
鯨井:市民が積極的に政策決定に関与するためには、政治のDX化をどのように進めていくべきでしょうか。
谷口:憲法56条1項に「両議院は総議員の3分の1以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない」という規定がありますが、ここでいう「出席」の解釈について、衆議院憲法審査会は「緊急事態が発生した場合には例外的にオンライン出席を認める」という見解を示しました。さらなる一歩を踏み出すためには、なりすましを防止する議員の本人確認や、サイバー攻撃からの防衛など、セキュリティ面での信頼性を高める必要がありそうです。
鯨井:国内の公的機関での本人確認は、マイナンバーカードとパスワードによる認証方法が用いられています。しかし、この認証方式には、カードの管理やパスワードの使いまわしなどのリスクが懸念されます。日立では、生体認証の中でも高い精度と利便性を持つ指静脈認証*5の研究開発を進めており、公開型生体認証基盤(PBI)*6という安全で使いやすい認証基盤を提供しています。
谷口:討論型世論調査や電子議会の根底には、熟議民主政治という考え方があります。代表的論者のJ. ハーバーマスは、代表が議会(国会)で討議をして物事を決める公式な代表制民主政治の回路に加えて、市民社会における非公式な熟議という民主政治の第2回路を公的な政策決定に生かすべきだと主張しています。それにより、これまで議会では注目されてこなかった新しい問題や解決法が浮上したり、意見に対して十分な検討が行われることで結論が受け入れられやすくなるなど、民主政治をより人々に近いもの、そしてより強いものにできると考えているのです。
熟議民主政治を実装するためのテクノロジーの提案
鯨井:「熟議民主政治」を実装するためのテクノロジーとして、どのようなものが必要だと考えていますか。
谷口:1つ目は、特定の施策に対する考えを調査するために、意見集約をサポートするツールを開発できないでしょうか。
2つ目は、社会に散在するビッグデータを分析したり、政策手段によって社会が変わる予測を立て、立法事実(法律が必要な根拠)を固める。あるいは政府が主張する立法事実の検証などの情報提供を通じて、人々や議会それぞれの熟議を促進することができれば素晴らしいと思います。
そして3つ目。地元の議員に限らず、自分の意見に最も耳を傾けてくれそうな議員は誰なのか。自分が感じている問題意識に立った議論が過去にも行われているか。会議録や各議員の発言録や公約などから横断的に検索し、マッチングしてくれるような機能が欲しいところです。発言機会のない議員もいるので、国会会議録の検索だけでは限りがありますし、マスメディアのデータベース・アーカイブは各社バラバラで、利活用できる部分は限られています。情報を網羅しつつも虚偽や誹謗中傷の類は取り除かなければならず、「言うは易し、行うは難し」な課題です。
技術開発を通して、議員や市民それぞれの意思決定を支援し、さらには両者のインタラクションの促進によって、テクノロジーはデモクラシーを進化させることもできるのだと、社会に示してくださるよう期待しています。
熟議民主政治を実装するためのテクノロジーの現状
鯨井:谷口先生からいただいた3つのご提案について、AIによる支援の可能性を考えてみたいと思います。
1つ目は、施策に対する意見集約の支援です。SNSやBlogなどから特定の施策に対する意見を抽出したり、能動的な意見の収集については、チャットボットや、音声認識を用いた電話アンケートなども活用できるかもしれません。
2つ目は、AIによる政策提言の支援です。さまざまな未来の姿をシミュレートする際に、施策の実施有無によって未来の姿が変化することが分かっています。その分岐ポイントに着目することで、立法事実の検証を支援することができるのではないかと考えています。
3つ目は、さまざまな文書を対象に協力者を検索する支援です。各議員の会議での発言録、公約、ウェブサイトなどを対象に類似検索することで、自分と意見の近い議員を見つけられるようになります。また、異なる意見を主張する議員を見つけたり、比較したりすることもできるようになります。
AIは過去の経験を一般化することができますが、新たな状況について示すことは難しい。このような技術課題を解決する研究開発を進めながら、人とAIがそれぞれの得意なところと苦手なところを補い合うように協創し、どちらか片方だけでは描くことができない新しい未来を創っていきたいと考えています。
人に寄り添うAI開発をめざす
鯨井:AIを含むテクノロジーによって、どのように政治のあり方が変わっていくか、その可能性についてお話させていただき、ありがとうございます。現時点で、実現への糸口が見えてきたもの、これから我々がもっと研究を進めて行かなければならないものも含め、議論できたと思います。とはいえ、このような新しい政治のあり方を実現するためには、技術開発だけが必要な訳ではありません。谷口さんのような政治学分野の研究者の方々、国や自治体などの政策立案や行政を実施している方々、また日立のような技術を提供する企業が協創する必要があると考えています。
膨大な情報から正確な情報を見つけ出す技術、情報をさまざまな観点で整理し俯瞰する技術、未来をシミュレートする技術、中立的な立場でファシリテートする技術など、人と協創するAIを研究開発することで、皆さまと協創しながら、自分自身が未来の社会の姿を決めていける、選択できる社会の実現に貢献していきたいですね。
谷口:東京大学名誉教授の辻井潤一先生にヒアリングをさせていただいたときに、「日本におけるAIは政府が人々を監視するためのものではない。逆に専ら企業が利益を上げるためのものでもない。日本のAIは人々と協働し、人々を助け、見守るためのパートナーになれるものである」とおっしゃっていて、「なるほど」と思いました。私たちは鉄腕アトムやドラえもんの国に住んでいるわけですから、日本ならではの「人々と共にあるAI」、私の専門に引きつけて言うと、「デモクラシーを進化させるAI」を開発していただくことを期待しています。
産業界で勢いを増しているDXの流れは、政治の世界にも及んでいる。日本においても、今の情報化社会に適した政治システムの在り方が議論され、その中でAIの活用も期待されています。日立は、我々市民がより積極的に政治に参画し、我々の未来の社会の姿を自分たちで決めていく、そのような社会の実現にAI技術で貢献していきます。
*1:https://www.hitachi.co.jp/rd/news/topics/2019/0719.html
*2:https://www.hitachi.co.jp/New/cnews/month/2015/07/0722.html
*3:https://www.hitachi.us/rd/solutions/design-approach.html
*4:https://www.hitachihyoron.com/jp/archive/2010s/2019/03/05c04/index.html
*5:https://www.hitachi.co.jp/products/it/veinid/index.html
*6:https://www.hitachi-solutions.co.jp/bss/
プロフィール
※ 所属、役職は公開当時のものです。
谷口 将紀
東京大学教授 (大学院法学政治研究科)
博士(法学)
東京大学法学部を卒業後、東京大学大学院法学政治学研究科勤務。東京大学助手、助教授、スタンフォード大学客員研究員、東京大学准教授を経て、2009年より東京大学教授。2003年東京大学にて博士(法学)取得。主要な研究テーマは現代日本政治論、選挙研究。
(公財) NIRA総合研究開発機構代表理事 (理事長)、(公財) 日本生産性本部理事。
鯨井 俊宏
日立製作所 研究開発グループ
先端AIイノベーションセンタ
メディア知能処理研究部 部長
博士(工学)
東京大学大学院航空工学専攻にて修士を取得後、1997年日立製作所中央研究所入所。音声認識、HMI、リモートセンシング、データマイニング、強化学習等の研究に従事。現部署では、自然言語処理、知識処理、音声認識、音響診断、XAI等の研究開発を纏めている。2019年鳥取大学にて博士(工学)取得。
日本人工知能学会所属。情報処理学会情報規格調査会SC42専門委員。