日立製作所(以下、日立)が開発したCMOSアニーリングは、組合せ最適化問題の解を効率良く求めるためのデジタル技術です。統計力学の分野で磁石などのモデルとして現れるイジングモデルの振る舞いを、半導体回路上で模倣することにより解を探索します。このCMOSアニーリングを、金融取引の最適化問題に適用する研究で成果を上げたのが、研究開発グループの杉田悠介研究員です。杉田研究員が学生時代に培った数値シミュレーションの経験が生かされるだけでなく、日立グループ内のグローバル連携で金融分野の知識やビジネス現場の声を吸収しながら開発を成し遂げました。
*CMOSアニーリングの成果の一部は、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の委託業務(JPNP16007)の結果得られたもの

今でもよく覚えている小柴先生の講演の興奮

父が学校の教師をしていたことから、家の本棚には科学に関連した書籍が並んでいました。大学で読むような専門書からブルーバックスのような一般書まで並んでいて、父の本棚に小さい頃から関心がありました。子どもには難しい本が多かったですが、「世の中にはわからないことがたくさんあるんだ、いつかわかるようになりたいな」と眺めていたことが科学への興味の1つの原点です。

もう1つは、自分のふるさとに研究所がたくさんあったことですね。市民向けの一般公開が行われたときには、よく家族で見学に行きました。ノーベル物理学賞を受賞された小柴先生が、高エネルギー加速器研究機構で講演されたときの、ものすごい賑わいは今でも記憶に残っています。こうした2つの要因から科学に関心を高めていったのでしょう。

画像: 今でもよく覚えている小柴先生の講演の興奮

その後、科学への関心はさらにつのり、大学では物理を専門に学ぶことにしました。特に、物質の示す特性の背後にさまざまな量子現象があることを学んで、物性物理に興味を持ちました。大学院では、数値シミュレーションによる理論研究に取り組んで、博士号を取得しました。数値シミュレーションにもとづいて、実験で観測されている物性の由来を明らかにしたり、面白い性質を示すであろう物質系を提案したりする研究です。例えば、トポロジカル絶縁体とよばれる表面だけ金属的な状態を実現しうるような物質系の提案をしました。

一方で、就職を考えたときには、より社会実装に近い研究領域への関心が高まりました。当時、実験家の方と共同研究させていただき、シミュレーションを通して考えたアイデアが測定している物質に上手く適用できそうだったり、できなかったりして、一喜一憂した経験が楽しかったんです。そうした手ごたえを、さまざまな分野の方と議論して、社会課題に対して感じていきたいという思いが強くなりました。そこで、物理に関する数値シミュレーションを通して得られた、情報処理に関する経験を活かせるような就職先を探しました。

いくつかの企業を見学していくうちに、物理と情報が融合した分野にも力を入れている日立なら、これまでの知識や経験が活かせそうだと感じました。例えば、材料開発に情報処理技術を活用するマテリアルズ・インフォマティクスへの取り組みや、現在の仕事につながるCMOSアニーリングのような物理現象に着想を得た最適化技術の開発を知り、やりたいことができそうだと思いました。日立は研究対象としている領域が幅広く、入社後に興味が変わっても社内でやりたいことにチャレンジできるかな、と考えたことも大きいですね(笑)

CMOSアニーリングは、物理現象から学んだ最適化処理技術

日立には2019年度に入社し、現在で4年目になります。研究開発グループで、CMOSアニーリングの研究をしている山岡さん(エッジコンピューティング研究部長の山岡雅直)の研究ユニットに配属されて、現在に至ります。入社時にいくつか研究テーマの希望を出していて、その中の1つがCMOSアニーリングでしたので、希望通りの配属ということになります。

CMOSアニーリングは、物理現象に関連したアニーリング法とよばれるアルゴリズムを活用しています。そうしたアルゴリズムを半導体回路で並列処理により効率良く実行します。物理現象に関連したアルゴリズムを実装しているので、私にもCMOSアニーリングに対するとっかかりはあるだろうと思っていました。また、日立北大ラボでの取り組みのように、数理や情報、回路技術など、分野を横断した研究がおこなわれていて、自分の世界を広げられることへの期待もありました。

研究開発グループに配属された当初から、金融ビジネスユニットと一緒に応用事例の開拓に取り組みました。日立はCMOSアニーリングの社会実装として、勤務シフト最適化ソリューションや、再保険市場における損害保険ポートフォリオ最適化などの事例を世に出しています。そうした事例の開発と前後する頃に研究を始めました。

今回の話題の中心になるのは、「CMOSアニーリングを高速の金融商品取引に適用するための技術」の開発です。この開発は日立グループ内の連携に端を発しています。当時、CMOSアニーリングを活用した新しい金融アプリケーションの検討について、金融ビジネスユニットや日立アメリカ社(Hitachi America, Ltd.、以下HAL)と議論をしていました。その中でHALの研究者から、CMOSアニーリングが高速取引に使えるのではないかと提案がありました。

画像: CMOSアニーリングは、物理現象から学んだ最適化処理技術

私たちの研究ユニットでは当時、関連した先行研究は把握していたものの、金融取引に詳しくなかったので検討には乗り出せていませんでした。そこで、金融ビジネスユニットにも支援してもらいながら研究開発を始めました。

ペア・トレードに適切なポートフォリオを数秒で構築

CMOSアニーリングによる最適化の適用を試みたのは、ペア・トレードとよばれる取引です。ペア・トレードは強く相関した2つの金融商品の値動きを利用して収益をあげる取引方法で、いわゆる裁定取引の一種です。例えば、まず似たような値動きをする2つの金融商品を選びます。大きく見ると連動していても実際には金融商品の価格は個別に変動します。そこで、ある程度価格差が大きくなったタイミングで売買し、予定通りに連動した動きを継続して差が縮まったときに反対売買をすることで利益を出します。

ペア・トレードで利益をあげるには、ペアになって連動する金融商品を見つける必要があります。過去の金融市場のデータから、連動性が継続している間にペアを見つけ、適切な売買をすることで利益をあげる仕組みが求められるのです。研究では、上場投資信託(ETF)に連動するように複数の株式を組み合わせたポートフォリオを組むことでペア・トレードの実現をめざしました。

画像1: ペア・トレードに適切なポートフォリオを数秒で構築

実際の取引では、ETFに連動するようなポートフォリオを構築する際、株式ごとの取引手数料や売買ルールに関する制約、流動性リスクなどを考慮することが求められます。これらの条件を組合せ最適化問題として定式化してCMOSアニーリングでリアルタイムに処理することで、適切なポートフォリオを柔軟に構築しつつ高速な取引が実行できると考えたのです。

CMOSアニーリングで解いた問題を要約すると、(1)ETFに追従し、(2)少ない銘柄数で構成でき、(3)取引で考慮したい制約を遵守する――という3つの条件を満たすポートフォリオを構成することです。2番目の組み込む銘柄数に関しては、少ないほうが売買が容易になりますから、ある程度少ない銘柄でETFに追随するポートフォリオを構築するように条件を設定しました。

画像2: ペア・トレードに適切なポートフォリオを数秒で構築

この取り組みでは、取引に適切なポートフォリオの条件を定めることと、それらをどのような式で表現するか考えることに苦労しました。私は当時、CMOSアニーリングに関する知識は得つつありましたが、金融分野の知識が不足していたのです。そこでHALの研究者や金融ビジネスユニットのメンバと議論をして、この取引で考慮すべき条件を列挙し、式に落とし込んでは計算して動作を確認するというサイクルを回しました。また、式の効果を可視化して検証するための取引シミュレーションも作成しました。この取り組みを通じてさまざまな分野の知識を学ぶことができましたが、これは金融分野に限らず、多方面で社会課題の解決に取り組んでいる日立で研究開発をするメリットだと感じます。

実際に金融市場の秒刻みのダミーデータを作成してシミュレーションを行ったところ、CMOSアニーリングでは数秒で複数回ポートフォリオの構築が可能で、直後に起こる取引機会を逃さずに捉えられることを確認しました。また、CPU上で実行したシミュレーテッド・アニーリングとよばれる計算と比較すると、計算時間を1/10以下まで短くできることも確認できました。これらの結果から、CMOSアニーリングによる最適化が、市場の動きを踏まえたリアルタイムの取引に有効であると考えています。

画像3: ペア・トレードに適切なポートフォリオを数秒で構築

実は広範囲なCMOSアニーリングの適用分野

金融分野のペア・トレードの問題では、取引に最適なポートフォリオを短時間で求めるのにCMOSアニーリングが有用であることを確認できました。複雑な最適化問題をリアルタイムに解くことのできるCMOSアニ―リングの適用先は金融分野に限りません。リアルタイムで広範囲の交通信号制御を最適化して、交通渋滞を低減させるような課題への適用検討も進めています。この他にも、共用周波数割り当てなどでもCMOSアニーリングによる最適化が活用される可能性があると考えています。金融や交通、エネルギーなどの分野では、CMOSアニーリングのリアルタイム最適化が大きな効果をもたらしそうです。

画像1: 実は広範囲なCMOSアニーリングの適用分野

もう1つ、社会課題解決に向けたCMOSアニーリングの用途として、問題規模が大きすぎて実用的な計算時間で解を得ることが難しかった事例への適用が考えられます。具体化してきている用途として、ソリューション提供を始めている勤務シフト最適化があります。勤務形態の前提条件や従業員の希望を勘案して、勤務シフトをきちんと最適化しようとすると、最適化に長い時間がかかってしまうことがあります。CMOSアニーリングを使うことで処理時間を短縮し、複数のシフト案を数時間程度で求めることができれば、翌日や翌週の勤務シフトの検討に使えます。

災害保険向けの再保険のポートフォリオ最適化でもCMOSアニーリングの実務利用が始まりました。災害によるリスクや契約に関するさまざまな条件を考慮すると、各再保険契約に対する費用決定が難しくなりますがCMOSアニーリングでこれを解ききることで実用化を果たしました。他にも、物資の配送計画など、最適化したいモノや量の種類、考慮しなければならない条件の数が増えてしまう課題に対して、最適化処理をその運用に組み込むためにCMOSアニーリングが役立つ可能性があると考えています。

画像2: 実は広範囲なCMOSアニーリングの適用分野

研究開発グループというと象牙の塔のイメージを持たれるかもしれませんが、ビジネスの実情に合った開発を行うために、私たち研究者がビジネスの現場に向き合う機会も増えています。「こういう最適化はできないの?」といった声はさまざま現場にあります。そのため、最適化に関するアルゴリズムやハードウェア実装の検討だけでなく、ユーザビリティを向上させるための技術開発にも取り組んでいます。また、高速取引の事例のように、CMOSアニーリングのユースケースの具体化に研究者が直接携わることも数多くあります。

CMOSアニーリングの研究開発を通じて感じたのは、日立の研究開発グループとさまざまな事業部門との間には密な相互作用がある、ということですね。事業部門から指摘された実用化に向けた課題を解決することは重要な研究開発項目となります。技術的なブレイクスルーをめざす研究開発だけでなく、今あるCMOSアニーリングの「ここが使いにくい」、「ここが直らないと現場で使えない」といった声を拾い、しっかり応えていくことが求められます。現在、入社前に想像したよりも多くの事業部門と連携して研究開発に取り組んでいますが、これこそ日立が社会課題の解決をめざしている組織であることの象徴なのかもしれません。加えて、これがまた楽しいんですよね。

画像3: 実は広範囲なCMOSアニーリングの適用分野

杉田悠介(SUGITA Yusuke)

日立製作所 研究開発グループ
計測イノベーションセンタ
エッジコンピューティング研究部
研究員

数値計算の「あるある」に研究者が腹落ちする一冊

研究者として役に立った本として、「数値計算の常識」(伊理 正夫、藤野 和建著、共立出版)があります。いわゆる「常識」というものは、言語化されていないことが多く、特に研究活動では属人化しているものが少なくないと思います。しかし、言われてみれば「そうだよね」と感じるものです。この本は、数値計算に関する常識集で、落し穴やその対処法が書かれています。例えば、桁落ちなど、この本に書いてあることを気付かずにやってしまった経験が私にもあります。多くの人が失敗する「あるある集」でもありますね。私は研究活動を始めてから数値計算に本格的に取り組み始めたので、背景知識を深く理解していなかったところもあります。この本を読んで、「あれが常識だったのか」と自分の経験を振り返りながら腹の底でわかるようになっていくことが、自分の成長を感じるマイルストーンにもなっています。

This article is a sponsored article by
''.