量子コンピュータは、世の中を大きく変える可能性(potential)を持つ。政府・国立研究開発法人科学技術振興機構(略称:JST)が推進する「ムーンショット型研究開発事業」の目標6「2050 年までに、経済・産業・安全保障を飛躍的に発展させる誤り耐性型汎用量子コンピュータを実現」(構想ディレクター:大阪大学 大学院基礎工学研究科 北川 勝浩教授)の研究開発プロジェクトのひとつとして、日立製作所研究開発グループ 基礎研究センタ主管研究長の水野弘之がプロジェクトマネージャを務める「大規模集積シリコン量子コンピュータの研究開発」が採択された。研究チームでは、量子コンピュータの早期実現に向けた一つの有力な技術として「シリコン量子ドット」の開発を進めている。半導体製造技術を生かした大規模化に期待されるシリコン量子ドットだが、デバイス開発や制御技術にはまだまだ課題が残る。しかし基礎研究センタの李研究員と、宇津木研究員はシリコン量子ドットで量子コンピュータを実現するためのデバイス開発と電子の制御技術の開発で大きな飛躍を実現した。

量子に魅せられた少年と、テニス・お笑いをめざした少年が日立で協創

画像1: 量子に魅せられた少年と、テニス・お笑いをめざした少年が日立で協創

李:小さいころから理科系の勉強が好きで、物理に携われる仕事がしたいなとぼんやり思っていました。中学生のころには、一般向けの本(講談社のブルーバックスなど)を読んで「量子という不思議な世界があるんだな、面白そうなことがあるな」と感じていました。そうした経緯があり、大学に入学した後、研究室では光を使った量子コンピュータの研究に携わりました。修士、博士過程で量子コンピュータの研究を行い、博士号を得ました。2022年のノーベル物理学賞の対象になった「量子もつれ」の分野で研究をしていたので、学生時代の自分の研究のど真ん中の領域でノーベル賞の受賞があって、とてもうれしく感じています。実は、大学院で研究をやりきった感があったこともあり、博士課程を修了して就職するときは、量子にこだわっていた訳ではありません。量子でも量子以外でも、これまでの研究のプロセスは役立つはずと感じていました。

画像2: 量子に魅せられた少年と、テニス・お笑いをめざした少年が日立で協創

宇津木:小中学生のころ、勉強はまあまあ好きでしたが、テニスのほうが好きだったんですね。それで高校でもテニスを本格的にやり始めたのですが、どうもあまり才能がないことがわかってきました。これは駄目だと諦めて、勉強に方向転換しました。大学に入学したら、今度は好きだった“お笑い”に夢中になりました。それでお笑い芸人になって食べていこうと、お笑いの学校に入学し直したのです。実は、大学の総務部に「退学してお笑い芸人になります」と言いに行ったのですが、「退学はしないで、せめて休学にしなさい」と諭されて、休学して2年ほどお笑いの活動をしました。ところが、これがテニスに劣らず才能がないことがわかったのです。舞台に出ても受けない日が続き、心がボロボロになっていきました。幸いにも大学は退学していなかったので、復学して勉強することにしました。テニスよりもお笑いよりも、勉強のほうにセンスがあったのかもしれません。

戻った大学の研究室では、ホログラフィックディスプレイ(holographic display)の研究をしました。ものが空間に浮かんで見えるのが面白いという単純な動機です。修士課程を修了して、就職活動をするとき、日立でホログラフィックメモリの研究をしていると聞き、大学の研究が生かせると感じて日立に就職することにしました。一方で、大学院で量子コンピュータの講義があり、これも面白そうだなと思っていました。講義では「量子の研究分野でノーベル賞がたくさん出ている」という話もあり、魅力的だなと思ったことをよく覚えています。

異分野の研究から量子コンピュータへ

画像1: 異分野の研究から量子コンピュータへ

李:日立に入社するときは、研究分野にこだわらないスタンスでした。入社から5年は、レアアース(rare-earth element)磁石の研究チームに配属されました。面接で「何でもやります」といって入社したこともありましたし、研究の基礎体力的なところは磁石の研究でも生かせると感じたこともあり、不満なく研究を進められました。大学と比べて、研究者の専門分野や年齢層が実に幅広いことに驚きました。特に日立では、物理が専門の私の隣の席にバイオが専門の方がいらっしゃったりして、研究のダイバーシティを実感しましたね。磁石チームでも専門はさまざまな人がいて、リーダーが上手くまとめて研究が活性化しているところなどは、大学では見られなかった光景でした。

画像2: 異分野の研究から量子コンピュータへ

宇津木:入社して関わったのは、ホログラフィックメモリの研究でした。入社した2013年は光ディスクのBlu-rayが世に出たころで、日立ではより多くのデータが記録できる次世代の光ディスクを作るための候補としてホログラフィックメモリに着目していました。3年ほどプロジェクトに携わり、その間にNHK技術研究所の「技研公開」で試作機をデモして賞をいただくなど、研究の成果を残すことができました。その後もしばらくホログラフィックメモリや光学検査装置の技術開発を継続していましたが、未来の技術に取り組みたいと考え、仕事の傍らで自主的に量子コンピュータの勉強を始めました。休日には社外の人と「量子情報勉強会」を開催し、ソフト開発者向けのWebメディア「CodeZine」(翔泳社)で連載をするなど、量子コンピュータの独学の研究を進めていました。2019年には翔泳社から「絵で見てわかる量子コンピュータの仕組み」という書籍を出しました。これといった趣味がないので、土日に勉強会と執筆を集中させることで、勉強を初めてから5年を経て無事刊行することができました。

画像3: 異分野の研究から量子コンピュータへ

李:5年ほど永久磁石の研究をして、レアアースを減らして磁石が作れるようになって、最終的にチームは発展的に解消していきました。その間、学生時代の知見を生かして、量子に関する研究の提案を1年ほど繰り返していました。そのころ、社内で量子コンピュータに興味のある人を探していたときに、宇津木さんとも出会うようになりました。提案を繰り返すうちに、特許や論文という成果も現れました。その結果、20年以上前から量子コンピュータの研究をしているイギリスの日立ケンブリッジラボに加えて、日本の基礎研究センタでも大規模な量子コンピュータの開発チームができることになりました。その後に宇津木さんと一緒に量子コンピュータの開発に携われることになったのです。

宇津木:李さんのように、量子をやりたいと提案して通ることもありますが、そうではない側面もあります。私も量子関連研究テーマの提案活動をしていましたが、なかなか提案が通らなかった。ただ提案するだけでは通らないことがわかるようになり、李さんとコンタクトを取るなどネゴシエーションしながら、これからの社会における量子技術開発の必要性を加味した提案活動を行い、現在に至る、という感じです。

画像4: 異分野の研究から量子コンピュータへ

シリコン量子ドットをマトリックス構造で作る2つの研究

李:私たちは、ゲート型量子コンピュータの実現手法として、シリコン量子ドットを使うことを考えて研究開発を進めています。量子コンピュータは、量子ビットと呼ぶ量子情報の最小単位を使って計算をします。量子ビットを数多く集めて、制御や相互作用をさせることでコンピューティングするのです。このタイプの量子コンピュータの実現には「超伝導方式」「イオントラップ方式」「光方式」などさまざまな方法が提案されていますが、私たちが進める「シリコン量子ドット方式」は色々な面でアドバンテージがあると考えています。

日立が取り組んでいるシリコン量子ドット方式では、半導体の中に電子を1つだけ入れる「量子ドット」というバケツのようなものを用意します。電子にはスピンという上向きか下向きかの2つの値を取る性質があり、量子ドットに1つだけ入った電子のスピンの向きを情報として取り扱い、量子ビットにする技術です。

シリコン量子ドットのメリットは、CPUやメモリなどと同様の半導体製造技術を適用できるため、複製して集積化しやすいことにあります。それと、シリコン量子ドットを制御する周辺回路も、同じシリコン基板に作ることができるというのが特徴です。量子コンピュータでは、多くの量子ビットを動かすことが課題ですが、シリコン量子ドットは大規模化するスケーリングの側面で将来的に有利な方式だと考えています。ただ、1つ1つの量子ビットの制御性はこれから高めていく段階です。

私たちの研究には2つの側面があります。1つは、シリコン量子ドットを二次元に集積して動かすこと、そしてマトリックス構造にすることで、電子を入れた量子ドットを選択制御できるデバイスを開発すること、です。

宇津木:単純化して説明すると従来の方式では、量子ビット1つに対して1つの配線が必要になります。100個の量子ビットがあったら、100の配線と100の制御装置が必要になります。一方、周辺回路によって制御可能な李さんのマトリックス型のデバイスならば、1つの制御装置で多くの量子ビットの制御が可能になります。

量子ドットという電子を入れる箱ができたら、そこに電子を1つずつ詰めていく方法を考えなければなりません。理論的にはいくつか方法が検討されていますが、実際にはデバイスの製造ばらつきなどの影響があり、大規模化していくとうまくいかない可能性があります。そこで私たちは、大規模な場合にも適切に量子ドットに電子を入れることができる方法の開発を目指しました。制御性を高めるこれらの技術が組み合わさることで、量子ビットを集積化した構造で動かすための基礎が出来上がると考えています。

画像: シリコン量子ドットをマトリックス構造で作る2つの研究

ワンチップで128の電子の「箱」を用意

李:開発したデバイスは、真ん中の小さいエリアに量子ドットがあります。量子ビットを多く集めてコンピュータとして動かすときには、何番目の量子ドットの電子を選択して制御するかという仕組みが必要です。ただたくさんの量子ドットを作るだけでなく、周辺回路などを同時に作って選択制御できる必要があります。

私たちは、二次元のマトリックス構造を取る量子ドットのアレイと、周辺回路や周りの電極などを、同じプロセスを使ってワンチップで作製することに成功しました。ドットも周辺回路の設計もプロセスも自社で開発し、研究開発グループ国分寺サイトのクリーンルームで作成したものです。ワンチップで量子ドットと周辺回路を作れることは、シリコン量子が大規模化するときに極めて有利なのです。デバイスの量子ドットのアレイは、8列×16行で構成されているので、128個の量子ドットがワンチップで実現できることになります。

画像: 2次元シリコン量子ドットアレイ

2次元シリコン量子ドットアレイ

画像: 16×8 量子ドットアレイと周辺回路をワンチップ化した量子チップ

16×8 量子ドットアレイと周辺回路をワンチップ化した量子チップ

その上で、製造したデバイスを使って、量子ドットとしての特性を測定することに成功しました。マトリックス構造を取る量子ドットには、印加する電圧によっては電子が入らなかったり、1個だけ入ったり、2個以上入ってしまったりと、ばらつきが生じます。量子ビットにするためには、電子を1つだけ入れる必要があります。そこで電極に掛ける電圧の条件と電子の入り方を測定することで、電子が1個入るための必要条件を見つけました。さらに、周辺回路で制御することで、128個の量子ドットから任意のドットの測定ができることが実証できました。

とは言え、まだ箱ができた段階で、128個の量子ドットに同時に電子を1つずつ入れる条件を見つけるところには至っていません。それでも、128個の量子ドットに1つずつ入れた電子のスピンを制御できれば、128個の量子ビットの量子コンピュータができる可能性が見えてきます。

画像: ワンチップで128の電子の「箱」を用意

電子を搬送する技術を量子ドットに適用する発想の転換

宇津木:李さんの研究で、量子ドットを構成する箱ができました。次は電子を1つずつ入れる仕組みを考えないといけません。私たちは従来とは別の方法で電子を1つずつ入れることにトライしました。

それが、単電子ポンプ(single-electron pump)という別の技術の応用です。電子がたくさんある場所から1つだけ電子を運び出すポンプを作るもので、我々が参考にした方式は2007年頃から開発されています。元々は、1つずつの電子を制御して高速に送ることができれば、電流の標準値を正確に定めることができるという視点から開発された技術です。これを量子コンピュータに応用して、電子の箱に1個だけ電子を入れようと考えたのです。

画像: 単電子ポンプを応用した電子のローディング方式のイメージ図

単電子ポンプを応用した電子のローディング方式のイメージ図

基本的な動作原理はこうです。量子ドットの箱に電子を1つずつ入れるために、たくさん電子があるところから1個抽出してドットに入れます。その上で、さらに隣のドットにバケツリレーで電子を1つずつ送っていけば、すべてのドットに電子を1つずつ入れられます。

こうした動作原理を確認するための実験を行いました。1個だけ電子を送る条件を探すのが結構大変で、いろいろなデータを取って探索した結果、ようやく1個の電子を単電子ポンプで送る条件を見つけ出すことに成功しました。我々のデバイスでも1つだけ電子が流れることを実験で実証できました。

その上で、1個の電子をさらにバケツリレーで隣の量子ドットに送ります。電子をうまく動かすためには、ドットとドットの間の電圧を電子の移動に対して「遮蔽」と「透過」になるシャッターのように制御する必要があります。いくつかのゲートで電圧を制御することで、ポンプとシャッターの動作を確認することができました。

まだ1つのポンプでドットに電子を1つ格納し、さらに隣のドットにバケツリレーで搬送するシャッターが作れたという段階で、スピンの制御はこれからです。しかし、大規模な量子ドットのアレイに電子を1つずつ「インストール」するための方法の基礎が確立できつつあります。バケツリレーでアレイに電子をインストールし、その後にスピンを揃える制御をすれば、大規模な量子コンピュータの実現に近づきます。

この研究では、東京工業大学(以下、東工大)と共同で実験を行うことで、早期に実験結果を出すことができました。これまでやっていた光学技術とは異なる実験環境のため、実験装置の扱いなど、不慣れなところからスタートしましたし、量子コンピュータ関連技術を実験的に検証するのは初めてだったので、立ち上げに苦労したことを思い出します。

李:ワンチップのアレイを作る際も、電子の動きが理想通りにいかないところを、なんとか手懐けるところが、難しくもあり面白くもありという印象です。量子ドットと周辺回路を同じプロセスで同時に作るのは、世界でも初めての試みですから、思ったように動くかどうか不安がありましたが、困難を乗り越えて成果が見えてきたと考えています。

多彩な人財のいる日立で研究する価値

画像1: 多彩な人財のいる日立で研究する価値

李:量子コンピュータの研究開発という意味では、宇津木さんも私もデバイスのボトムレイヤーの部分を担当しています。量子コンピュータを実現するには、ソフトウエアやアーキテクチャなど、さまざまなレイヤーの技術を統合する必要があります。1人では難しいのは明白です。

ただ、日立には私たちのようにハードウエアに詳しい研究者だけではなく多様なバックグラウンドを持つ多くの優れた研究者がいます。実際そのような人たちに助けられてここまでやってきた、というところがあります。多士済済(たしせいせい)こそが日立の特徴ですね。
それと、ハイクオリティの量子ドットを作るためには、東工大の先生方に教えを請いました。そうした多くの方々の力を借りて、量子ドットを量子コンピュータにするためのオリジナリティーのある技術として量子ドットのアレイ化が実現でき、大規模化への道が開けてきたと思います。

宇津木:日立の研究開発グループには「技術に対して熱い人がいる」ことも特徴だと思いますよ。仕事をこなすタイプの人だけでなく、量子コンピュータなら量子コンピュータに対して、絶対にこれを作りたいという熱量や信念を感じますね。

李:多彩な人財のチームで開発できるところは魅力だと思います。その上で、「これが上手くいったらすごいんだ」というストーリーを立てられれば、多少ミスをしても許される雰囲気がある(笑)。これは研究開発にはありがたいことだと思います。

宇津木:さらに、日立の研究者には真面目な人が多いかなというイメージもありますね。量子コンピュータに関しても、チャレンジングなテーマに真面目に取り組んでいます。幅広い知見を持つ研究者が、それぞれの持てる力を真面目に100%生かして研究開発していることが、日立の研究開発グループの強みかなと思います。

画像2: 多彩な人財のいる日立で研究する価値

李憲之(LEE Noriyuki)

日立製作所 研究開発グループ
基礎研究センタ
研究員

100年前に「自分のやりたいことをすべき」という結論にたどり着いた漱石に感動

夏目漱石の講演の内容を収録した「私の個人主義」(夏目漱石著、講談社学術文庫)を、何度も読み直しています。「現代日本の開化」が国語の教科書に載っていて、他の講演にも興味があって読んだことがきっかけでした。漱石の小説は好きで、子どもの頃から読んでいたこともあります。
この中で漱石は、「他人に言われたことではなく、自分のやりたいことをやりなさい。他人がやりたいことも尊重しなさい」と説きます。この主張は現代では当たり前のことかもしれませんが、100年前に自力でこの結論にたどり着いたことに感銘を受けて、何度も読み返しています。研究者も同じで、目的は同じでも人によってアプローチや方法論は異なるでしょう。それでも自分のやり方を貫き、さらに他人のやり方を尊重することは、大切な考え方だと感じています。

画像3: 多彩な人財のいる日立で研究する価値

宇津木健(UTSUGI Takeru)

日立製作所 研究開発グループ
基礎研究センタ
研究員

「新装版 計算機屋かく戦えり」(遠藤諭著、アスキー)をお勧めします。
日本におけるコンピュータ開発の歴史がわかる一冊です。26人の先駆者達が、どのように世界とコンピュータ開発競争を戦ってきたかを、当事者自身が熱く語っています。中でも、私が特に感銘を受けたのは、富士通のコンピュータビジネスを立ち上げてこられた池田敏雄さんのエピソードです。池田さんはかなり破天荒な人のようで、会社に来なかったりもしたようです。それでも、多くの人が池田さんを天才と認めて付いていき、最終的にはコンピュータ事業のトップとなって、事業を牽引していきます。コンピュータを作る人に勇気を与えてくれる本だと思います。

RELATED ARTICLES

This article is a sponsored article by
''.