気候変動や生物多様性の喪失が深刻化する中で、人類が地球上で安全に生存し続けるための環境上の限界を示す「プラネタリーバウンダリー」(地球の限界)の概念が注目されています。日立はプラネタリーバウンダリーと人々のウェルビーイング、経済成長が調和する持続可能な社会をめざしており、研究開発グループのプラネタリーバウンダリープロジェクトでは、地球課題の解決に貢献するイノベーションの創出とともに、脱炭素・自然回復・循環型社会への「トランジション」(移行)の道筋を探求する活動に取り組んでいます。
そのプロジェクトの一員として、環境・社会・経済のシステム変革のデザインや、深い思索体験の提供を通じた意識変革、行動変容のきっかけづくりに取り組む、研究開発グループ 佐々木 剛二 主管研究員にインタビューを行いました。プラネタリーバウンダリーの基本的な考え方をひもときながら、産業界が果たすべき役割、日立がこの概念をどのように事業や研究開発に取り込んでいるのかを語ります。
人類が地球上で安全に生存し続けられる限界を示す
近年、日本では夏の猛暑や豪雨、冬の大雪、渇水の発生、野生動物の活動域の変化など、かつてないような深刻な事象がたびたび観測されています。世界各地でも平均気温が上昇を続け、多くの人々の生活を脅かす気象災害が発生しており、気候変動はまさに「気候危機」と呼ぶべき状況となっています。また、世界的な人口増大、都市の拡大などにより、生物多様性の急速な喪失や、化学物質などによる大気・海洋・陸上の汚染が広がっていることが報告されています。現在の経済・社会活動は持続不可能であり、世界中の子どもたちや、これから生まれてくる将来の世代にとって、抱えることのできない重大な負担や苦しみを生じさせつつあります。
このような経済・社会活動の急速な拡大と地球の持続可能性に対する深刻な危惧は、すでにローマクラブが1972年に発表した報告書『成長の限界』でも指摘されていました。それ以降も、自然の保護や回復、社会変革の取り組みが続けられてきましたが、現在の地球環境の危機はきわめて深刻で、改善が見込めない状況にあります。そうした中で、スウェーデンのストックホルム大学にある持続可能性に関する国際研究拠点「ストックホルム・レジリエンス・センター」の研究者らが2009年から提唱しているのが「プラネタリーバウンダリー」という概念です。
プラネタリーバウンダリーは、人類が地球上で安全に生存し続けるために守るべき環境上の限界を、最新の科学的根拠に基づいてわかりやすく示したものです。ここでは、地球環境の多様な側面のうち9つの領域について、人間の影響の限界点と現在の状況を示しています。この9つの領域は、気候変動、海洋の酸性化、新規化学物質、窒素・リンの循環、淡水利用、土地利用、生物多様性、成層圏のオゾン層、大気中のエアロゾルです。これはおおまかに、気候変動、生物多様性の喪失、汚染という3つの重大危機の詳細を表しています。
人類社会が崖から落ちないためのガードレール
なぜ、プラネタリーバウンダリーが大切なのでしょうか。これを理解するためには、人類の生存を可能にしている自然環境の条件が、私たちが想像しているよりもかなり狭いということを思い出す必要があります。地球上に人類の祖先が誕生したのは700~500万年前とされていますが、人類が繁栄できるような地球環境になったのは、およそ1万2,000~3,000年前と、つい最近のことです。氷期が終わり、地球の気候が温暖かつ湿潤な状態で安定したおかげで、人類を含めた多様な生物が繁栄し、農業が可能になり、文明が大きく発展しました。この頃から現代までを地質時代区分では「完新世」と呼びます。このきわめて限られた条件のもとでのみ、人類が繁栄しえたのです。

ところが産業革命以降、人類の経済・社会活動のあり方が急速に変化しました。特に20世紀半ば以降、人間による自然資源の消費、都市や農地の面積などが指数関数的に拡大し、自然環境への負荷も急増しました。人類による地球環境の改変の速度やスケールは、その維持や回復の力を大きく上回っており、このままでは人類の生存そのものを脅かしてしまう危険性が指摘されています。そうならないためのガードレールのようなものとして示されたのがプラネタリーバウンダリーです。プラネタリーバウンダリーに関する研究や分析の結果は、サステナビリティの研究においても広く引用され、日本を含む各国の環境政策でも基礎的な考え方として位置づけられています。
しかし最新の研究では、残念ながら、9つの領域のうち、7つにおいてこのバウンダリーを超えてしまっていることがわかっています。その対策を急がなくてはなりません。
産業界に求められる大きな役割
経済・社会活動が、人類にとって安全な地球のあり方に戻るために、産業分野の変革がきわめて重要なカギをにぎっています。人間の経済活動は自然(Nature)の上に成り立つものであり、特に食料、エネルギー、不動産、運輸など、多くの産業が自然資源に依存しています。したがって自然環境の悪化が進むことは、ビジネスそのものの存亡に関わります。産業界は社会貢献活動というより、みずからの事業基盤を守るために、資源の利用方法やビジネスモデルを持続可能なものへと転換していかなければならない段階に来ています。資源を採り、つくり、使い、捨てるという一方向の経済から、循環型の経済へとシステムを転換しなければなりません。企業は、気候変動への対策だけでなく、自然資源の使用や管理などの項目についても、詳細に情報を開示することが求められつつあります。
日立は2022年に発表した中期経営計画から、ウェルビーイングとともにプラネタリーバウンダリーを事業において念頭に置くべき重要な概念として掲げています。そして、2025年には、環境ビジョンと環境長期目標「日立環境イノベーション2050」を改定し、「脱炭素」「サーキュラーエコノミー」「ネイチャーポジティブ」の3つの柱を新たに環境ビジョンとして掲げています。3年ごとのアクションプランを定め、カーボンニュートラル、水と資源の利用効率の改善、生態系保全のための活動などにグループ全体で取り組んでいきます。
社会イノベーション事業とプラネタリーバウンダリー
研究開発グループでも2022年度から「プラネタリーバウンダリープロジェクト」がスタートし、私はそのメンバーとして研究活動を行っています。文化人類学分野で博士学位を取得したのち、日本学術振興会の特別研究員や、国や民間の研究機関の研究員、慶應義塾大学などの教員などを務め、グローバリゼーション、都市、移民、サステナビリティなどの研究に取り組んできました。日立には2017年に入社し、人類学者として、地球課題の喫緊性がビジネスや政策に与える示唆にもとづきながら、地球環境にかかわるイノベーション戦略の策定や、大学や研究機関との連携プロジェクトに携わってきました。
現在、多くの企業が脱炭素やサステナビリティに関する取り組みを行っていますが、日立のようにプラネタリーバウンダリーを事業ビジョンの中心に据えている企業は多くないと思います。以前、プラネタリーバウンダリー研究の指導的研究者であるヨハン・ロックストローム博士(ドイツ・ポツダム気候影響研究所所長)をたずね、直接、対話をさせていただきましたが、博士が中心となって活動をしているPlanetary Guardiansという団体の関係者の方から、日立が他の企業に先駆けて思想的リーダーシップを発揮していることを好意的に評価していただきました。
そもそも日立が企業活動の中核に据えている「社会イノベーション事業」は、重要な地球課題の解決を、大きなビジネスの機会としてとらえ、さまざまなステークホルダーとの協創を通じて実現するということです。これは、世界がプラネタリーバウンダリーの範囲内で繁栄していけるよう、新たな発想でビジネスのしくみそのものを変革していくことだと思います。日立は幅広い事業ポートフォリオ、先進的な技術、そしてステークホルダーとの協創を通じて、これを推進する重要なポジションにあります。

地球環境と経済成長、ウェルビーイングが調和する社会へ
エネルギー、鉄道、産業、AIといった日立の事業領域の多くは、持続可能な社会基盤の構築に直結しています。再生可能エネルギーの導入拡大、鉄道という環境負荷の少ない公共交通の高度化、省資源型のものづくり、循環型の製造システムへの転換など、日立が取り組んでいることはいずれもプラネタリーバウンダリーの考え方と深く結びつきます。
AIについても、変動の大きい再生可能エネルギーの需給調整、送配電の最適化、気象データを分析し災害を早期警戒するシステム、生物多様性にかかわるデータの統合や環境モニタリングなど、持続可能な社会の実現に必要なデータ活用の高度化に活用できる可能性があります。そうした意味でも、日立がプラネタリーバウンダリーを重視していくことはきわめて合理的であると考えます。
日立が2025年4月に発表した経営計画「Inspire 2027」では、IT(情報技術)、OT(運用技術)、プロダクト(製品)を併せ持つ日立独自の強みを生かし、地球環境と経済成長、ウェルビーイングが調和する「ハーモナイズドソサエティ」の実現に貢献することをめざすという方針を打ち出しています。ウェルビーイングには、身体的な健康というだけでなく、質の高い教育や充実した仕事、心の健康、公正性に支えられた社会との充実したつながりといった意味があります。この方針は、地球環境の限界の内側で、人々の暮らしや社会の健全性の向上をめざすものです。
そうした考え方は、オックスフォード大学の経済学者ケイト・ラワース氏が2011年に提唱した「ドーナツ経済学」の概念と通底するところがあります。地球環境の限界を超えて人間が生き延びていくことはできませんから、経済活動はその内側にあるべきです。しかし、資源や食料や教育などが不足しすぎても、当然、人は持続的な幸福を享受することができません。ラワース氏は、プラネタリーバウンダリーの考え方を基礎としながら、有限な地球の自然条件の内側で、人々のウェルビーイングを支えていくことこそが、経済に求められているものだと訴えています。
トランジションの道筋を示す
ハーモナイズドソサエティの実現は、単に技術や事業のみによって達成できないと考えます。私たち研究開発グループには、技術開発とともに、めざすべき未来のビジョンと、それを実現するために必要な社会システムの転換について道筋を見出すことが求められています。その役割を担うのがプラネタリーバウンダリープロジェクトです。このプロジェクトには、化学、電子工学、サービス工学、デザイン、人類学など多様な専門性を持つメンバーが集っており、地球環境に関わるイノベーションの戦略立案、情報収集、有望テーマの抽出、個別の技術開発、事業部門との連携などを進めています。
プロジェクトで重視している考え方の1つが「トランジション」(移行)です。これは、現在の持続不可能な経済・社会システムを、いかに持続可能なものに変革するか、その道筋はどのようなもので、なにをすれば実現できるかを考えるための概念です。私たちは、イギリスのイノベーション研究の重要人物であるマンチェスター大学のフランク・ヘルシュ教授によって示されたマルチ・レヴェル・パースペクティヴ(MLP)という理論にその着想を得ています。
プラネタリーバウンダリープロジェクトでは、トランジションという考え方を核に、多様なアクターと対話をしながら、あるべき変化のすがたを描き、これを実現する方法を探求しています。トランジションにかかわる代表的な活動としては、2016年に東京大学との産学協創に関する共同研究拠点として開設した日立東大ラボにおいて、エネルギーシステムに関する提言を展開してきたことが挙げられます。日立と東京大学の研究者が連携して、カーボンニュートラル社会の実現と、Society 5.0を支える次世代エネルギーシステムの構築に関する研究や提言書の発刊を行っています。私も日立東大ラボのメンバーとして、カーボンニュートラル実現に向けた対話、脱炭素社会へのトランジションシナリオの検討、気候・エネルギー・環境をめぐる世界情勢のランドスケープ分析などを行ってきました。

また、日本において実際にトランジションを進める上で重要な役割を担うのは地方自治体です。日立東大ラボでは、2025年に全国の47都道府県、1,741の基礎自治体を対象に、トランジションの課題に関するウェブ調査を行い、1,189団体(回答率66.5%)から回答をいただきました。脱炭素は、エネルギーという観点だけから見るのではなく、防災、地域創生、少子高齢化といった地域課題と結びつけながら統合的にアプローチすることが必要です。私たちはこれを「統合的トランジション」と呼んで、政策提言を続けています。そうしたトランジションの考え方やウェブ調査の分析結果などを、報告書「日本の地方自治体におけるトランジション」にまとめ、各自治体にお送りして脱炭素政策に役立てていただいています。
そのほかにも、プラネタリーバウンダリープロジェクトでは水素エネルギーにかかわる研究開発や戦略立案を行っているほか、キリンホールディングス株式会社の持つ植物大量増殖技術と日立の自然計測技術を融合させ、森林由来のカーボン・クレジットの創出と、生物多様性の保全をめざす共同研究も行っています。
このように、持続可能な未来へのトランジションは、私たちの経済のあり方そのものを正しい方向へ導くための重要な考え方ですが、近年、世界中で勃発する戦争、資源やエネルギーの危機、極端な政治的な対立などによって、持続可能な開発目標(SDGs)の達成が危ぶまれています。また、世界の温室効果ガス排出削減の取り組みは、パリ協定で定められた1.5度の上昇に抑えるという気候目標を実現するための軌道から大きく外れてしまっています。
しかし、地球環境の危機そのものは続いており、このままでは、将来世代も含めて多くの人々の生存に重大な影響が及ぶことがわかっています。このような危機の中だからこそ、新たな変化を生み出していくことができるかもしれません。今後は、地政学的変化、経済対立などが絡み合う状況をふまえ、地球システム科学と地政学・地経学の考え方も取り入れながら、実行可能な次の一手を示す研究を強化していきたいと考えています。

――関連記事 ≪音楽と言葉でつむぐ思索の時間と新しい対話のかたち≫ では、地球環境の課題をどう「自分事」へと変えていくのか。持続可能な社会への道筋を構想する研究について語ります。
プロフィール

佐々木 剛二
日立製作所 研究開発グループ Next Research
主管研究員
博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了後、日本学術振興会特別研究員、東京大学学術研究員、森記念財団都市戦略研究所研究員、慶應義塾大学特任講師などを経て現職。人類学、移民、都市、持続可能性などに関する多様なプロジェクトに携わる。日立製作所では、持続可能性トランジションにかかわる分野横断的プロジェクトを主導。著作に『移民と徳』(名古屋大学出版会)など。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。




