製造の現場などでシステムや設備を動かすための制御・運用技術は「OT(Operational Technology)」と呼ばれている。現場ではOTを通じて多様な知識とデータ、ノウハウなどのスキルが日々生み出されており、属人的になりがちな現場知識を価値へと変換することが必要だ。日立製作所は製造設備の故障原因を高度に推定するAIエージェント技術を開発した。設計図面データを生成AIが読み解けるナレッジグラフに変換、OTデータともども体系的な安全分析手法(STAMP/CAST)による分析を実行。熟練技術者の思考プロセスを模倣することで、未知の故障にも対応可能だ。すでにダイキン工業との共同実証で有効性が確認されている。研究開発グループ Digital Innovation R&D モビリティ&オートメーションイノベーションセンタ 自律制御研究部の吉村 健太郎 主管研究員に話を伺った。

執筆:森山 和道(サイエンスライター)

「壊れるはずがない機械」で構成された設備の故障・原因対策を短時間・高精度で推定するには?

経験が浅い保全員であっても高度な保全作業を実施可能にしたい――。これは製造現場の長年の課題だ。熟練技術者の高齢化と退職、グローバル展開に伴う人材不足等から、ますます喫緊の課題となっている。しかしながら課題が存在している。保全記録などのデータをAIに学習させるアプローチは以前から試みられており、一定の効果はあった。しかし情報の記載レベルの不透明さや不均一さ、言語化されていない暗黙知が多く、記述された内容も本人しか理解できないことがあるなどの原因によって、限定的な効果しか得られなかった。

2022年頃からは、生成AIを用いた検索拡張生成(RAG)のような手法が台頭してきたが、過去の記録やマニュアルに記載された既知の事象には対応できるものの、過去事例と微妙に異なる事象には対応できないということもあり、本質的な課題解決には至らなかった。

工場設備は基本的には連続稼動を前提とした、高信頼な機械で構成されているシステムだ。そこで発生するのは未知の新規故障や、類似例のない故障ということになる。「壊れるはずがないものが壊れた」といった現象が対象であり、記録から類似事例を検索するような方法では原理的に対応できない。

また、設備内の物理的な接続関係や、信号や流体の流れなどを全てデータとして学習しているわけではないため、「バルブが故障」といった抽象的な回答に留まり、数十ある部品の中から具体的に特定することは困難で、有効な対策を提示できず、現場での実用には至らないという限界があった。この課題を解決するため、新たなアプローチによるAIエージェントの開発が求められた。

熟練者の思考・分析手法を模倣できるAIエージェントのしくみ

従来のAIの限界を克服するため、日立は、熟練技術者が故障原因を分析する際の思考プロセスそのものを分析し、AIで再現する独自のアプローチを採用した。このAIエージェントは、熟練者の「OTナレッジ」が、対象のOTデータ(設計データ)と、その情報に基づくOTスキルによる分析を通じて、原因を洞察できるという仮定から成り立っている。よって、コア技術は、AIが論理的に思考できるようにするための「データ」と、熟練者の分析プロセスである「スキル」の2つの要素から構成されている。

画像1: 熟練者の思考・分析手法を模倣できるAIエージェントのしくみ

まず「データ」とは各種生産設備の設計情報の理解である。熟練者が図面を開いて設備全体の構造を把握するように、日立の独自技術を使って設計図面をAIにも理解できるナレッジグラフの形式に変換し、情報を理解させる。

具体的には配管計装図(P&ID)や電気図面から、部品の接続関係や上下位構成(ポンプ、フィルター、バルブ等の関係性など)を抽出。抽出した構造情報をナレッジグラフやBOM(部品表)形式に変換することで、AIが設備の物理構造を論理的に理解できるようにする。現状では人間が図面情報を読み解き、部品構成や接続関係の構造化データをAIに与えているが、将来的には図面読解AIによる完全自動化をめざしている。

「スキル」は設備故障原因分析プロセスの学習によって獲得される。複雑なシステムで起こる故障原因を論理的に分析するためにシステム安全分析手法「STAMP/CAST」をAIに学習させた。

「STAMP/CAST」とはSystem-Theoretc Accident Model & Process(システム理論に基づく事故モデル)/Causal Analysis based on System Theory(システム理論に基づく因果分析)の略で、もともとはNASAの航空宇宙システムなど、極めて複雑で高信頼なシステム向けに開発された分析手法である。専門家でも習熟には時間を要する手法だが、高い推論能力を持つLLMにこの方法論を「OTナレッジ」として学習させることで、AIが熟練者のように体系的かつ論理的な原因分析を実行できるようになった。

ここで重要な役割を果たすのは「検索拡張推論(Retrieval Augmented Reasoning: RAR)」という手法である。適切な図面や標準作業手順(SOP)を検索しながら、設備の構造と熟練者の分析スキルを組み合わせて、裏付けのある具体的な点検や安全な対処法を提案することができる。

要するに、単なる情報検索ではなく、設備の構造解析と熟練者の診断ロジックを組み合わせることで、未知のシナリオにおいても裏付けのある点検箇所と是正措置を導き出すことができるのである。

従来のRAGは、マニュアルや過去の故障記録から、類似事例を検索することには長けている。しかし前述のとおり、過去に例のない新規の故障や、似て非なる事象への対応は困難である。そもそもミッションクリティカルな現場では、重大な故障が同じ形で繰り返されることは稀だ。だが検索拡張推論は、単なる事例検索にとどまらず、設備の構造を解析することで、未知のシナリオで事象が発生しても、その原因を絞り込むことができるのだ。

この「OTデータ」と「OTスキル」の組み合わせ、すなわちナレッジグラフ化とOTスキル(≒熟練者の知恵)の学習、STAMP/CASTのような要素間の相互作用によるシステム異常の原因を分析できる手法の活用により、AIは単に過去の事例を検索するのではなく、製造設備の構造とシステム的な因果関係を理解した上で、未知の故障に対しても論理的に原因を推論できるようになった。

画像2: 熟練者の思考・分析手法を模倣できるAIエージェントのしくみ

短時間・高精度なAIエージェントの実現 「考えるAI」は現場からも高評価

この「設備故障診断支援AIエージェント」は、2025年4月にはダイキン工業との共同実証で実用化に向けた運用を開始。設備故障の原因特定、点検項目・是正措置の提示に用いたところ、原因推定精度は汎用AIでの67%から90%超へと向上した。原因特定と対策立案に要する時間が直接的に短縮できる。実用上は応答速度も重要だが、問い合わせから約10秒程度で故障が疑われる具体的な部品名を含んだ回答を生成。これにより、作業員は迅速に次のアクションに移ることが可能となった。

診断レベルについてもダイキン工業の熟練保全員から「一般的な保全技術者と同等以上」「初心者よりは明らかに優れている。現場で使えるレベル」といった高い評価が現場から寄せられたという。特に、AIが図面を正しく理解し、新規の故障に対しても具体的な原因を洗い出せる点が評価された。

同年末には三菱ケミカルとも共同検証を開始するなど、先進的なAIを日立ならではの深いドメインナレッジで強化することで、Lumada 3.0を体現するソリューション群であるデジタルサービスHMAXTM Industryの一部として既に具体的な成果を上げている。

将来は熟練者の集合知から構成された「スーパー熟練者」へ

製造設備の故障原因を短時間かつ高精度で推定するこのAIエージェントは、日立が管理するクラウド基盤上で稼働する「考えるAI」「現場で答えるAI」として、有効性が実証されている。工場設備、生産ラインだけでなく、今後はさらに、電力、鉄道、自動車、ITインフラなど、高度な信頼性が求められるミッションクリティカルな領域への拡大を想定している。現場作業者をサポートすることで社会インフラ全体の安全性と信頼性の向上に貢献できる技術だ。

さらに発展させていけば、世界中の拠点から得られる保全データを吸収することで、特定の現場の暗黙知をグローバルな組織知へと昇華させることも可能だ。現状では困難な「力加減」のようなパラメータについても、今後、現場データを活用して出力する「フィジカルAI」の枠組みで取り組んでいく。

吉村は、このAI技術を発展させていくと「スーパー熟練者」ができるのではないかと想定している。さまざまなドメインの現場知識と熟練者たちの持つOTスキルを集約させることで、熟練者の集合知を持つAIエージェントが構成できるのではないかというわけだ。熟練者自身も他の専門家の思考パターンを学べるだろう。組織全体の暗黙知が形式知へと昇華されることになる。

高信頼の制御・運用技術から生まれた熟練者のスキルが「AI」として広く提供されるようになると、人間は、より創造性が求められる「工場の未来を構想する」といったイノベーション創出に時間を費やせる。AIを人間の能力を拡張する「道具」として使いこなし、共に作業する新しい熟練者が今後のものづくりの現場を変えていくのかもしれない。

関連リンク

画像: 【導入事例】日立 設備の故障診断にAIエージェント活用~ダイキン工業様~ youtu.be

【導入事例】日立 設備の故障診断にAIエージェント活用~ダイキン工業様~

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