がんをはじめとする遺伝子が関連する疾患では、診断や治療薬の選択などに遺伝子変異の検出が重要となっている。しかし、次世代シーケンサーによる遺伝子検査は高額で時間がかかるという課題がある。日立グループでは従来から遺伝子変異を検出するキャピラリー電気泳動装置の開発や販売を続けており、研究開発グループ ヘルスケアイノベーションセンタでは、この技術を活かした簡便で安価な遺伝子検査の開発に挑んでいる。横井崇秀、安藤貴洋 両主任研究員と万里千裕研究員に開発の進捗や目標を聞いた。

光技術とバイオの専門家がチームを組み、遺伝子変異の高感度検出に取り組む

安藤:大学では電子工学科で光のバイオ分野への応用研究をしていました。病院付属の研究センターと共同研究でレーザーを使った遺伝子導入や神経疾患の治療の研究に取り組み、工学博士の学位を取りました。日立を選んだ理由は、一つの分野にとどまらないで、技術開発ができると思ったためです。例えば光計測の技術を作ったときに、それがバイオとかヘルスケア分野だけじゃなくて、水質の検査、鉄道車両の検査など、「光」をベースに他のインフラ事業にも展開できるとか、横串で研究開発できる会社かなと思いました。一つの会社で分野融合ができたら面白いなと思ってヘルスケアが専業ではない日立を選びました。

画像1: 光技術とバイオの専門家がチームを組み、遺伝子変異の高感度検出に取り組む

2013年に入社後、最初は電子スピン共鳴技術を用いた再生医療向けの細胞計測を担当しました。その後、健康診断に使われる血液分析装置の分注技術や光源開発を経験し、2021年より遺伝子検査に関わる本プロジェクトに取り組んでいます。

万里:大学で生物工学を専攻し、修士課程を修了しました。修士課程では免疫細胞のひとつであるB細胞を研究していました。B細胞は病原体の抗原に結合する抗体を産生する細胞です。B細胞に与える刺激を工夫することで抗原により強く結合する抗体を産生させることができるのが面白いところです。食品関係の仕事に就きたいと思っていたところ、教授から日立がライフサイエンス推進事業部を立ち上げると教えていただき、大学で学んだ遺伝子工学が活かせると思い入社しました。入社当時は、アカデミアや製薬企業からの依頼で、病気になった人や薬を飲んだ人で発現する遺伝子の解析などを担当しました。薬など治療に自分の仕事の結果が活かされると実感しました。

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2007年に研究開発グループに異動し、プログラミングのグループに配属されました。プログラミングはほとんど経験したことないだけにとまどいました。パソコンを購入する際に「Core2」を「高圧」と聞き間違えたくらいの初心者でした。それでもC言語を使ってプログラミングできるまで育てていただき、これは、日立の良いところだと思います。尿の成分検査を行う尿沈渣装置で血球と酵母菌を区別するアルゴリズムを開発しました。残念ながら途中でプロジェクトは終わってしまったので製品化はされませんでしたが良い経験になったと思っています。2017年より現在の部署に異動しました。

横井:私は細胞生理学で博士号を取得しました。テーマは植物細胞の成長メカニズムの研究です。細胞の成長は縦に伸びるか横に太るかの2軸しかなく、それがどのように分子制御されているのかを調べました。その後、植物系の研究所で2年ほど遺伝子操作による新しい花の開発に従事し、日立に中途採用で入社したのは2000年です。

画像3: 光技術とバイオの専門家がチームを組み、遺伝子変異の高感度検出に取り組む

当時、ヒトDNAの全塩基配列を解読するヒトゲノム計画の一環で、日本が完全長cDNAの解析をめざしていました(cDNAとはcomplementary DNA の略で、mRNAを鋳型に合成される相補的DNA)。これは新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の国家プロジェクトで日立が幹事企業であり、私も参加して3年ほど遺伝子解析を担当しました。そして、後継の機能性RNAプロジェクトにも携わりました。当時、国家機関や大学の研究者との議論で多くを学び、また人脈が作れたのは大きな財産です。食品やお酒の企業とも数多くの共同研究もしていました。

その後、日立ソフトウェアエンジニアリング(当時)に出向して、遺伝子解析関連のソフトウェア開発、サービス事業の立ち上げに関わりました。研究開発グループに戻ってきてからは、遺伝子測定に先立つ遺伝子抽出や遺伝子の標識等の試料調製に関する研究をしました。2018年からこの電気泳動を用いる新しい遺伝子検査の開発に携わっています。

反応する遺伝子変異の数を増やせるように工夫し、試薬を調整して感度を高めた

横井:我々が開発したのは、がん患者さんが持っている異常な遺伝子を検出する技術です。
がんは遺伝子が傷ついて発生します。がんの治療では遺伝子変異に合わせた分子標的薬が開発されていて、患者さん一人ひとりのがんの遺伝子変異を調べ、それに合わせた分子標的薬を選べるようになりつつあります。ただ、現状では、患者さんは遺伝子変異を調べるために組織を採取しなければならないことがほとんどで、また、保険診療で調べられる遺伝子変異の数や検査を受けられるタイミングに制限があります。特に次世代シーケンサー*1を使って多くの遺伝子を一度に検査する遺伝子パネル検査は、進行・再発がんで標準治療が終了する見込みの患者さんにのみ保険適用されており、1回しか受けらませんし、高額な検査です。

*1 次世代シーケンサー: DNAの塩基配列を高速かつ大量に解析できる装置。一度に大量の塩基配列を同時に決定することができる。

画像1: 反応する遺伝子変異の数を増やせるように工夫し、試薬を調整して感度を高めた

このような遺伝子検査をもっと早い段階で血液などの体液を用いて簡便に、しかも多くの遺伝子をいっぺんに安く検査できないかというのが開発のコンセプトです。

日立ではキャピラリー電気泳動シーケンサーを販売2しており、日本や欧米の病院でかなり普及しています。前述の次世代シーケンサーによる遺伝子検査は検体の処理などに手間が必要で、外部に委託するため、コストも時間もかかります。それに比べ、キャピラリー電気泳動シーケンサーであれば、院内で短時間に、そして簡便に安く検査することができます。

*2 キャピラリー電気泳動シーケンサー:毛細管(キャピラリー)内で電気泳動を行い、DNAの塩基配列や塩基長を解析する装置。

安藤:開発では、肺がんで多いEGFR遺伝子変異、膵がん、大腸がんに多いKRAS遺伝子変異など、複数の遺伝子変異をキャピラリー電気泳動で同時に高感度に検出できるかどうかを調べました(下図)。がん関連遺伝子に対して、蛍光分子を標識した試薬と任意の塩基長に設定したプライマー(鋳型DNAに相補的な塩基配列を持って結合する合成の1本鎖DNA)を作用させ、キャピラリー電気泳動シーケンサーで検出できる信号を鋭敏にすることで、1%の感度で複数の遺伝子変異を検出することができました。
https://link.springer.com/article/10.1007/s44211-024-00508-8)。

画像2: 反応する遺伝子変異の数を増やせるように工夫し、試薬を調整して感度を高めた

横井:キャピラリー電気泳動で、多数の標的遺伝子を対象として微小な遺伝子変異の存在を高い感度で検出できる技術が我々の特徴です。鋳型DNAやプライマーの長さ、試薬を変えることで、感染症などヒトの病気のほか、環境DNA検査にも応用可能と考えています。

今回開発した技術を使い、製薬や診断薬、検査の企業さんと一緒に新しい遺伝子検査のプラットフォームを構築したいと考えています。

画像: 患者さんの血液検体の中には正常なDNAとがん由来のDNAが入っており、検査の感度を高めるためにDNAを増幅し、蛍光分子でラベリングして検出する。増幅後DNA(鋳型DNA)に対して対象遺伝子の塩基配列を含むプライマーを加えて一塩基伸長反応をさせると、末端の塩基種に応じた蛍光分子を結合させることができる。その反応産生物を電気泳動すると正常の遺伝子配列とがん由来の遺伝子配列で別の色の蛍光信号が検出される。蛍光の強さを比較することもできる。そのため、変異のありなし、変異がある場合の変異の量を見られる系となっている。この原理を使い、多種類のプライマーを入れて同時に反応させることで、多項目の遺伝子変異が定量的に検出できる。

患者さんの血液検体の中には正常なDNAとがん由来のDNAが入っており、検査の感度を高めるためにDNAを増幅し、蛍光分子でラベリングして検出する。増幅後DNA(鋳型DNA)に対して対象遺伝子の塩基配列を含むプライマーを加えて一塩基伸長反応をさせると、末端の塩基種に応じた蛍光分子を結合させることができる。その反応産生物を電気泳動すると正常の遺伝子配列とがん由来の遺伝子配列で別の色の蛍光信号が検出される。蛍光の強さを比較することもできる。そのため、変異のありなし、変異がある場合の変異の量を見られる系となっている。この原理を使い、多種類のプライマーを入れて同時に反応させることで、多項目の遺伝子変異が定量的に検出できる。

検査の系の各部分で、担当者それぞれが壁を乗り越えた

横井:我々の開発している遺伝子検査では、一塩基伸長反応に使うプライマーの種類が多いほど検査できる遺伝子の数を増やすことができます。使用するプライマーの識別はプライマーの長さで区別するため、より長いプライマーが合成できれば従来より多くの遺伝子の同時検査が可能になると考えられました。ところが、通常、化学合成できるプライマーの長さは200塩基程度で頭打ちになります。何とかしてプライマーを長くするというコンセプトを掲げたものの、論文にも事例がなく、2〜3か月プライマーに分子の重りを付ける方法をチーム内で検討しましたが、なかなか出て来ない。電気泳動で分析するためには、大きさが完全に揃ってないと駄目で、一般的な化学合成した材料では難しい。ある夜、就寝中に突然、プライマーに分子重りをつける新しいアイデアを思いつきました。そして、すぐに試して2週間ほどでうまくいきそうなことがわかりました。大きさを揃える課題についても、材料の純度を揃えプライマーの結合部分も工夫しました。それらの工夫によって、600塩基ぐらいの長さのプライマーを作れるようになりました。

画像1: 検査の系の各部分で、担当者それぞれが壁を乗り越えた

安藤:私はキャピラリー電気泳動シーケンサーから出る蛍光信号のデータ処理を主に担当しました。出てくるデータが正常細胞と比べてがん細胞の遺伝子変異を表す信号なのか、それともノイズなのかを分けるところで苦労しました。変異が含まれないベースラインのデータとの比較が解析のポイントでした。チームで議論しながら、信号の分解能、あるいは蛍光分子の量などを工夫して感度を向上できました。

画像2: 検査の系の各部分で、担当者それぞれが壁を乗り越えた

万里:私は研究開発に用いる遺伝子などの材料調製を担当しました。遺伝子検査で使われる市販の検体はいくつかの遺伝子が混ざった状態なので、その中からほしい遺伝子を取り出して調製する作業をひたすら1年くらい続けました。大学時代に研究したことが活きましたね。

横井:計測技術を作る上では標準化された材料が必要で、例えば感度1%で遺伝子変異を検出するためには、まず100%の感度で遺伝子変異を見られる検体が必要なのです。生命科学の研究室みたいな研究でしたね。

安藤:ちょうど近年、キャピラリー電気泳動シーケンサー装置自体のハードウェアとしての測定能力も上がって、より長いプライマーを安定して計測できるようになったという点もこの検出技術の進歩を後押ししています。

画像3: 検査の系の各部分で、担当者それぞれが壁を乗り越えた

横井:我々はこの技術のコンセプトとそれがうまくいくことは提示できましたが、今後、どんなターゲットでどのくらい調べられるのか、汎用性や安定性を検証していかなければなりません。そのためにも感度の向上など技術を高める必要があります。

困ったことを相談でき、別のアプローチを出し合えるフラットなチーム

万里:横井さんも安藤さんも頼りがいがあります。横井さんは遺伝子の知識と扱う技術をお持ちなので、困ったことを相談すると一緒に考えてくださって、いつも前向きな次の一歩を提示してくださいます。安藤さんはデータを解析する側からの新しい視点でアドバイスくださる方で、こんな別のアプローチもあったんだなと気づかせていただいています。

安藤:横井さんにはアイディアやプロジェクトの進め方はお任せして、私はデータ解析などに徹しています。横井さんがアイディアを出して次に進むときのアクセルを踏み込む力はまねできないと思っています。万里さんは、私ならすっ飛ばしそうなことでも一つ一つの手順を堅実に進めてくださることに感心します。チームが成せる研究成果だと思います。

横井:私はいつも見通しがなくても楽観的に研究計画を立てます。私はバイオ系研究者で工学的な設計などはできませんから、この部分をお願いねと頼むわけです。安藤さんも万里さんも二人とも困っていることや変更する方がよいと考えることをきちんと話してくれます。それが共有できると修正できますから。このチームも含めて研究開発グループのヘルスケア部門は、みんなバックグラウンドが違って、お互い上下関係がなく、リスペクトを持って議論できるところがよいところだと感じています。

研究開発の領域を健康維持や農業などにも広げていきたい

横井:健康な人たちがより健康を維持できるように貢献できればいいなと思っています。例えば、老化の進行度を新しい指標で見ることができるようになったら面白いでしょうね。それを遺伝子で調べるかどうかは別ですが。

万里:私は以前に農業領域に携わったことがあり、土壌に含まれる遺伝子にも興味があります。遺伝子解析を通じて土壌の中の細菌をうまくコントロールし、農業生産を上げることができればいいなと妄想しています。

安藤:今、自宅で体重計、体温計、血圧計などを使用して健康管理をするのが普通になっていますよね。いずれ血液検査が家庭でもできるようになれば、自分の健康管理に遺伝子が使える時代が来るかもしれないと考えています。今日ご紹介した技術では小型の専用装置で蛍光検出していますが、スマホのカメラやLED光など、技術の進歩でどんどん身近で測れるものは増えていくと想像しています。今は病院でしか測れないものが身近になって、個人の健康管理はもっとアップデートできるはずです。

画像1: 研究開発の領域を健康維持や農業などにも広げていきたい

横井崇秀(Takahide YOKOI)主任研究員

日立製作所 研究開発グループ デジタルサービス研究統括本部
ヘルスケアイノベーションセンタ バイオシステム研究部

自戒を込めて読み返す、遺伝子レベルで管理される社会を描くSF

『すばらしい新世界』(オルダス・ハクスリー著 大森望訳 早川書房)は1932年に書かれたSFです。遺伝子レベルで管理されるディストピアが描かれています。優生保護法が制定されるよりも前に書かれているのが驚きです。企業人であれ、研究者であれ、遺伝子に関わる人間の務めとして、倫理的な問題に踏み込んだり、遺伝子への考えを歪めたりする可能性があることをきちんと考えておかないといけない。企業やそこで働く我々は誰かを幸せにすることが原則で、誰か不幸にしてはならないのです。自分への戒めとして大事な本です。こういう業界に関わる人には読んでおいてほしいなと思っています。

画像2: 研究開発の領域を健康維持や農業などにも広げていきたい

安藤貴洋(Takahiro ANDO)主任研究員

日立製作所 研究開発グループ デジタルサービス研究統括本部
ヘルスケアイノベーションセンタ バイオシステム研究部

「やったことが失敗というわけではなくて、やらなかったこと自体が失敗」という言葉は座右の銘

『仕事は楽しいかね』(デイル・ドーテン著 野津智子訳 きこ書房)を紹介します。本の中に、「やった事が失敗したのではなく、やらなかった事自体が失敗」、という一節があります。常に変わり続けることの大切さ。このままでも良いかも、と思ってしまいそうになる時、行動を起こすために背中を押してくれます。意思の無いサラリーマン研究者にならぬよう、変化を楽しむキャリアを積みたいと思わせてくれる一冊です。

画像3: 研究開発の領域を健康維持や農業などにも広げていきたい

万里千裕(Chihiro MANRI) 研究員

日立製作所 研究開発グループ デジタルサービス研究統括本部
ヘルスケアイノベーションセンタ バイオシステム研究部

白衣着て、好きなだけ実験室にこもっているのにあこがれる

『動物のお医者さん』(佐々木倫子著 白泉社)は中学生のときに友人から借りて読み、その後、自分で全巻そろえました。中学でも高校でも周囲に理系に進む友人が少ない中、この漫画にはユニークな女性の研究者が多く登場し、暗いイメージのあった研究室は、そのようなことはなく、ワチャワチャ楽しく研究できるんだな、理系にも楽しい世界が待ってるよ、というのを知るきっかけになりました。

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